4-2 趣味で始め、主観で営んできた44年

創業45年目を控え、劇場用パワーアンプを導入

 2023年も12月となり、残りはわずか。この「猫と歩み続けたジャズ喫茶―「JAZZ 喫茶映画館」の44年―」連載も回を重ねて10回目、第4章の2節にいたりました。来年夏には、店は創業45年目を迎えます。早いようで短い44年。これだけの歳月続けてこられたのも、お客様のおかげだという思いを新たにする今日この頃です。
 白山上に店を移し、「ジャズと映画、文化の中継基地」を目指して店名を「JAZZ&somethin’ else・映画館」としてからもすでに39年。何かを発信したいとウズウズしている者たちの溜まり場として開店時に目指したクオリティーを現在も維持できていると自負していますが、さて、どこまでやれるか。自分自身の引き際を考えなければならない年齢となり、体力、気力、集中力の衰えを感じないわけにはいきません。
 このような日々だからこそ、最後の力を振り絞って、米国IPC社製の劇場用パワーアンプAM-1027型2台の導入を決意し、今日12月20日に到着しました。早速、当店のアンプに合わせたスピーカーケーブルの出力端子を作り、ハンダ付けで仮留めして繋いで音出しをしました。
 しかし、1台は静かでクリアーな音でしたが、もう1台は電源ノイズが酷くて使えません。このアンプの重量に押されてでしょうか、シャシーの左端の電解コンデンサーが付け根から折れていました。
 もっとも、このコンデンサーの交換だけで済むようでしたら、修理は簡単です。これは1940年代後半から50年代にかけてアメリカの映画館で多く使われていたパワーアンプで、最もポピラーな真空管6L6を2本終段に使ったプッシュプル型です。これを当店の仕様とBTS規格に合わせて少々改造して使えるようにしていきます。
 高級な封切り映画館では、日本でもアンプからスピーカーまでWestern Electric社製かRCA社製のサウンド・システムでまとめられていました。一方、その次のクラスの映画館では、このIPC-1072型パワーアンプを使われていた例が多いです。

「映画館グループ」の力を借りて集めた貴重盤

 店名の「JAZZ&somethin’else」中一番肝心なJAZZの部分では他店にはない貴重盤も多少はあり、それら貴重盤のかかる店として知られるようにはなりましたが、これについては自力で達成したというよりもレコード・コレクターの集まり「映画館グループ」の力が大。彼らが持ち込んできたレコードをかけたり、彼らの話から得た知識をもとにレコードを購入した結果です。
 1984年、それまで神田神保町の「コンボ」に集まっていた彼らは、同店の閉店を機に次の店を探しており、グループのリーダーである田中氏と棚本氏が当店を視察に来られたのでした。そのとき、私はジョン・コルトレーンの『LIVE AT MOUNT MERU』を含むスウェーデン盤初回プレス全5枚セットをお見せし、かけました。その結果、コレクター目線のお眼鏡にかなったようです。
 以来、当店をグループの拠点として奇数土曜日の夕方から集まり、その後マスコミでの紹介のおり「映画館グループ」と名付けられ、40年近く1回も休むことなく続けられています。彼らから譲っていただき、今では入手困難となった貴重盤も多数あります。
 最近では、2023年12月第1週にはグループのS氏がその日に50万円で購入したというKenny Dorham『quiet kenny』(NEW JAZZ 8225)を持ってこられました。当店にある最もオリジナル盤に近い日本盤と比べたところ、ジャケット写真がクリアーで、盤も新品同様。以前の持ち主は保存用として持っていて、一度も針を通していなかったようです。
 こういったジャズ・レコードのコレクションへの情熱には、いつも感服させられます。そして、そのレコードに針を落として聴けるというのもまた店主冥利につきます。

一番力を入れてきたのは、基礎から勉強したオーディオか

 「JAZZ&somethin’else 喫茶 映画館」は私の趣味で始め、主観で営んできた店です。
 結果として一番力を入れてきたのは、基礎から勉強したオーディオかもしれません。以前も書きましたが、プレイヤーからパワーアンプ、そしてスピーカーでは低音専用ボックス、木製・中音用ホーン、高音用ツイーターにいたるまで自作です。参考にしたものはトーキー映画のサウンド・システムを発明したWestern Electric製で、その劇場用アンプは憧れの1つですが、店の開店時にはすでに高価になっており、私には買えませんでした。しかし、友人が購入した「難あり品」を修理〜復元してさしあげたことが何度かあり、その作業を通じてWE社のアンプ作りの思想性が理解でき、勉強にもなりました。集めたWE社のアンプ関連資料は、コピーですが、厚さ20センチ以上になりました。
 当店で使用しているレコード・プレイヤーは、NHK仕様で力の強い、デンオンRP-52です。局ではターンテーブルを常時回転させていて、上板の薄いターンテーブルの上にレコード盤を置き、レコード針を曲の頭にセットして、クイックスタートさせて使いますが、当店ではクイックスタートの必要はありません。そこで、入手と同時に薄いクイックスタート・ターンテーブルを外し、8ミリ厚の両面研磨ガラス板をセンターに7ミリの穴を開けた340ミリ径の円盤に加工してもらい、ターンテーブルの外周に対して1ミリの誤差もなくぴたりとはめ込んでいます。
 製造から半世紀以上経過して、近年アイドラーゴムのノイズが気になりだしました。そこでモーターノイズを完全に切り離せるマイクロ製糸ドライブプレイヤーを導入し、交互に使用していました。そんなある日、当店のお客様で東大の研究所等からの依頼でどんな小さな部品でも作っておられる白石治様とお話をしたところ、アイドラーを作れると知り、オリジナルの軸受けへは交換用アイドラーのゴムを作り、さらにセラミックを素材とした軸受けとアイドラーのゴムを作っていただきました。
 できあがりを見ると、最新の素材で作ってありますから、プレイヤー製造時以上の性能を確保。アイドラーのノイズは皆無となり、糸ドライブプレイヤーを使う必要もなくなりました。

相倉久人氏から瀬川昌久氏へと続いたジャズのトークイヴェント

スコット写真展
 一方、店名の&somethin’ else(何でもある、特別な、の意)の部分では映画の上映会に始まり、詩の朗読会、舞踏とジャズのセッション、写真展、トークイヴェントなど考えうるかぎりのさまざまな催しを行ってきました。ジャズよりもこれらのイヴェントで他店とは違うジャズ喫茶としての足跡を残してきたのではないかと思えます。
 2011年の東日本大震災と福島原発の事故の衝撃は大きく、以降当店で開催されるイヴェントも原発の存在が無視できません。ご常連のお客様の一人冨田修氏は原発の危険性を訴えたビラを40年以上にわたり経産省と国会前で配布されています。また、同じくご常連であり、社会派運動の集団「映像ドキュメント.com」の創設者である桜井氏、吉川氏、荒川氏は、2011年、18歳選挙権取得に関連した『18歳のためのレッスン』(約60分)全11本のうち7本を当店で撮影されました。そのうち澤地久枝氏の会では、冒頭に虎太郎が出演しています。これは、当店ホームページのClip Boardでご覧いただけます。2015年10月には、同じメンバーでトークイヴェント「戦後日本と憲法を考える」を開催しました。
 ジャズに関わるトークイヴェントとしては、ご常連のJAZZ Moritateya・福原賢治氏との相談で相倉久人氏のトークを企画し、長門竜也氏の構成協力のもと、「相倉久人炸裂ジャズトーク〜ジャズは世界にどう突き刺さったか!」として起ち上げました。その第1回は2013年4月、瀧口譲司氏の司会進行により開催。25名の方々が集まり、満席となりました。
 同じ年の11月には、特別企画として映画監督の足立正生氏、死刑囚・永山則夫の全ての遺品の管理者である市原みちえ氏をゲストにお招きして足立正生監督による映画作品『略称・連続射殺魔』の上映とトークイヴェントを開催。映画製作の趣旨、相倉氏が音楽監督をつとめられた映画音楽録音時の裏話などをお聞きしました。
 さらに、2014年12月には第9回としてゲストに伊藤銀次氏をお呼びして「〜70年代、相倉久人は何故ジャズから去ったか〜」をテーマに開催。そして、「炸裂ジャズトーク!」は2015年1月31日の第10回まで続けましたが、相倉久人氏の体調不良でご入院のためここで一時中断。残念ながら同年7月8日、相倉久人氏は83歳で逝去されました。悲しいことでした。
 2015年10月1日に学士会館で行われたお別れ会「相倉久人氏を送る会」で配布された追悼の冊子「さらなる<出発>〜相倉久人」の見開きには当店トークイヴェント時にスピーカー前で撮られた写真が使われています。
 ジャズに関わるトークイヴェントとしてはもうひとつ、2014年6月から始まった瀬川昌久氏による「瀬川昌久白熱ジャズトーク」があります。相倉氏によるトークイヴェントとはひと味異なり、その内容はジャズ史講座へと発展していきます。
 2016年12月10日の第4回「李香蘭とその時代〜次世代に語り継ぐ・戦争をさせないために〜」は瀬川氏からの提案で開催にいたったもので、のむみち氏が司会進行、映像ドキュメントが撮影〜配信を行って下さいました。そしてこれが瀬川氏のトークイヴェントの総集編となりました。
 お話は李香蘭主演の幻の映画『私の鶯』(1943年、満州映画協会・東宝共同制作)で始まり、戦時中のジャズ音楽禁止への反骨から押し入れで聴いたジャズ、学徒出陣と戦後の復員、ジャズイヴェントの開催、戦中に共通する反知性のお話、そして今の時代にまで通底する危険を熱心に訴えられました。
 知性のある学生が戦争反対を口にできず、特攻へと志願させられて自ら死を選んだのは、いまも大きな疑問です。社会の雰囲気が自身の命よりも大きかったのでしょうか。戦争の惨さはいまの時代へと繋がるように思います。
 瀬川氏は2021年12月29日、97歳で逝去されました。打ち合わせのためにお宅へお邪魔しますと、いつも貴重な資料を次の世代へ繋げたいとおっしゃって見せてくださったことが忘れられません。瀬川氏、相倉氏とともに年月を重ねられたのは、当店にとっても大きな財産です。その志に恥じないようにしたいと思っております。

言葉の「重さ」と「詩」の朗読会

 話は少し脇にそれますが、私なりに戦前から戦中の歴史を整理してみます。
 1932年に五・一五事件、33年に京大滝川事件、35年に天皇機関説問題、36年に二・二六事件が起き、38年には国家総動員法が発議され、39年のヨーロッパではナチスのポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発。40年10月には国内に大政翼賛会ができ、思想・言論の弾圧は自由主義から常識的な学説にまで及んでいき、そして41年12月には真珠湾攻撃で日本も世界大戦に突き進んでいく……。
 石橋湛山氏は1930年代から軍事力による膨張主義を批判し、平和な貿易立国を目指す「小日本主義」を『東洋経済新報』の論説で展開提唱していました。また、斎藤隆夫氏は1940年2月の衆議院本会議にて「反軍演説」を行い、米内光政首相を追及。その結果、3月7日の本会議で除名処分が議決されて衆院を辞任しましたが、1942年の総選挙では翼賛選挙の中にもかかわらず兵庫県5区から出馬して最高点で再当選を果たして衆議院議員に復帰しました。
 しかし、これら「小日本主義〜反軍国主義」が国民的運動になることはなく、新聞〜ラジオでも自らの取材による報道がされることはなく、「玉砕」「特攻」「転戦」という言葉を使って事実を曖昧にし、正しく伝えていませんでした。瀬川昌久氏は、今の時代には戦中へ向かっていたかつてのときと同じ空気を感じると何度もおっしゃっておられました。
 言葉には「重さ」があります。2000年になってから、私は「言葉の重さ」を意識するようになり、「詩」の朗読会を偶数月の土曜に店で始めました。参加していただいた方のうち何人かは、詩集を出版されました。
 この朗読会に参加されていた村田活彦氏は現在、毎週土曜日24時から「渋谷のラジオ」にて「誰も整理してこなかったポエトリー・リーディングの歴史」を放送されています。私は、1920年代〜40年代のアメリカでジャズをバックにしたポエトリー・リーディングが行われていたことをこの放送から、レコード再生から知りました。そこで演奏されているジャズは、モダン・ジャズの先駆けです。
 一方、戦後のモダン・ジャズの時代にあっては詩とジャズのレコーディングの数は少ないものの、日本人では白石かずこ氏がサム・リヴァースの演奏をバックにコルトレーンを追悼した「KAZUKO SHIRAISI」、沖至・吉増剛造両氏による「幻想ノート〜古代天文台」が知られています。
 吉増剛造氏は2004年3月の当店での朗読会にお越しくださり、太田省吾氏、豊島重之氏と「新しい劇言語にむけて」の対談を行い、さらに自作の詩を朗読してくださいました。これについては「現代詩手帖」04年4月号に掲載されています。氏の朗読の時は、お客様全員が物音1つ立てずに静寂の中で聞き入っていました。
 それから18年後の2022年に当店にて開催された坂田明+瀬尾高志ライブでは、坂田明氏が1stステージでは平家物語の一節を、2ndステージでは谷川俊太郎の詩を歌うようにリーディングされました。このライブは録音されて『SAKATA AKIRA X SEO TAKASHI Live at HAKUSAN EIGA-KAN』としてCD化。当店でも販売しています(¥2200)。

“JAZZKISSA”が共通言語になった

 映画関連では映画が縁で知り合って10年以上になるのむみちさんとは2018年に瀬川昌久スペシャルトークとして「宝田明『銀幕に愛をこめて』〜ぼくはゴジラの同期生〜構成・のむみち、刊行記念」を行いました。のむみちさんは「名画座かんぺ」と題して旧邦画に特化した上映スケジュール表を毎月お一人で制作され、各映画館などで配布されている方で、昨年その10周年を記念したささやかなお祝いの会を当店で行いました。ゲストにはウクレレ奏者のノラオンナ様をお迎えし、また小西康陽氏からも祝電が届くという楽しい会でした。
 その姉妹紙として妹世代の女性2人組が他の劇場を紹介される「ミニシアターかんぺ」を発行されており、この両紙を合わせると東京での殆どの上映が分かります。当店で映画上映があるる場合も書いていただいています。
 このように振り返ると、すべてのイヴェントが人との関わりの中から生まれていて、私一人の発案ではとてもできないことがあらためて実感されます。イヴェントにはそれこそジャムセッションのような楽しさがあります。
 ジャズ喫茶としては外国からのお客様も増えて、今では外国でも“JAZZKISSA”が共通言語になりました。驚きと同時に、昔に比べて日本人の若者のお客様が減ったことをつくづく感じます。現在のような閉塞した時代にしてしまったのには、私たち世代の責任も大きいでしょう。それでも、どのような時代にあっても、新しい文化を模索し、創っていくのは若者です。今ひとつ頑張って欲しいと願うのは、私が老境に達しているからでしょうか。

 「JAZZ&somethin’else・映画館」の店内は、イヴェントスペースとしては不十分なつくりです。その都度、テーブルや椅子の配置を変えて空間を作って対応してきました。それでも今日まで続けて来れたのは支えて下さった皆様のおかげです。感謝申し上げます。
 まだまだこれからだと思ってもおります。今年もあと数日。本年もお世話になりました。
 来年もまだまだ連載は続きますのでよろしくお願い申し上げます。

「4-2 趣味で始め、主観で営んできた44年」への2件のフィードバック

  1. 6年前の12月に『映画館』で行われた瀬川昌久さん講演特別企画「李香蘭とその時代」に、僕も聴きに行ったことを思い出しました。

    この講演で取り上げられた映画『私の鶯』(監督:島津保治郎、原作:大仏次郎、音楽:服部良一、出演:李香蘭、制作:満州映画協会&東宝映画、1943年)は、今僕が丁度読んでいる本『満映と私』(岸 富美子、石井妙子共著、文芸春秋社、2015年)の中に顛末が少し書かれています。

    この本の著者である岸 冨美子は映画編集者で、例の『新しき土』(監督:アーノルド・ファンク&伊丹万作、主演:原節子、日独合作映画、1937年)の編集手伝いをした人。後の1939年に満州に渡り満映に入社して、当時理事長であった甘粕正彦の下で編集の仕事に就きました(彼女の兄は『私の鶯』のカメラを務めた人です)。

    『私の鶯』の島津監督は戦争翼賛映画に最後まで反対したことで知られています。スタッフは戦時下のさまざまな思いをこのミュージカル映画にぶつけたのだと思われます(満映では日本国内ほど締め付けは厳しくなかった)。しかしながらクランクアップ後、日本での公開日も決まったのもかかわらず突然に、このような「娯楽映画」は戦意高揚の妨げになると判断されて上映が中止になりました。

    甘粕正彦は1945年の玉音放送の5日後に青酸カリで服毒自殺します(当時の満映の日本人の間で、彼の自殺は「無責任だ」というう批判が多かったそうです)。その後、岸 冨美子さんたち満映の従業員の一部には長く辛い中国放浪の旅が続きます。この時に一団のリーダーだったのが『血槍富士』や『飢餓海峡』の監督である内田吐夢で、この経験が彼が日本に帰還してから暫くの間のの映画制作の姿勢に大きく影響しているのではないかと推測できるような気がします(まだこの本を読了していないので生半可なことは言えませんが)。

    瀬川昌久さんの『戦中に共通する反知性』という毎日新聞の記事があります。現在の与党の一部の政治家たちの言動には「戦中にジャズを弾圧したと同じような反知性的で軽率な妄想を感ずる」「一部の週刊誌や夕刊紙を見ると、戦中の知性欠如の言動の横行を思い出す」と指摘されていました。

    この『映画館』での彼の講演の副題には「次世代に語り継ぐ・戦争をさせないために」とあります。今ヨーロッパで起こっている2つの大きな戦争。イデオロギーや地政学だけでは判断を誤ってしまう情勢。加害側と被害側が、時を隔てていとも簡単に反転しまい、たくさんの人が殺されているということ。戦争における被害者は政治家ではなく、いつも民間人・市民であること。これらの僕たちの目の前に厳然とぶら下がっていることは、瀬川氏が正に感じ、訴えていたことのような気がします。

  2. ご丁寧なコメントを有り難う御座います。今振り返りましても、それぞれのイヴェントにはその時代を表現する意義はあったと思っております。瀬川昌久氏からは戦争をしてはいけないと言う力強い大きなメッセージを頂きました。
    当店が44年続けて来られたのも関係性を持ちました沢山の人々のお陰だと改めて思います。
    この国を作っていく新しい時代の若者たちにそのメッセージをどの様に繋げていくのか、課題は重く大きいです。

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