3-4 「ジャズと映画を発信する文化の中継基地」を目指して

 前回に続き、映画との関わりを少し綴っていきます。

突然飛びこんできた映画『刺青』封切り公開の話

 2020年のある日、梵天太郎事務所代表の加藤弘氏から突然の連絡がありました。聞けば、40年間封印されたままになっている梵天太郎唯一の監督映画作品『刺青』のノーカット版(86分)を4Kリマスターとして封切り公開することになったとのよし。それで撮影当時のことを知りたく、関係者を探してようやく私にたどり着いたとのことでした。そして、映画上映にあたり、パンフレットの解説を書いてくれというのです。
 これはまさに寝耳に水の話で、まずは作品が残っていたことに驚かされました。偶然にも、私はこの映画の企画当初から最後のヤマハホールでの完成試写会まで関わった、唯一人のスタッフでした。
 それからしばらく経って、事務所の代表は今度は4代目梵天太郎氏を連れて来られ、このとき、初代梵天太郎が『混血児リカ』などを描いた漫画家としても有名な方であり、2008年、79歳で亡くなられていたことを知らされました。
 梵天太郎監督『刺青』という作品は映画製作の問題点をいろいろと現場で学ばせてもらったという意味で、苦難を乗り越えた思いのある作品です。そもそもは1975年秋、記録映画の監督である前田憲二氏と梵天太郎氏が刺青の記録映画を作るということで起ち上げた企画でしたが、紆余曲折あって梵天太郎氏の青春期を織り込んだ劇映画+記録映画に変更。劇映画をよく知る助監督として市川崑テレビシリーズ『追跡』の監督補であった岡野敬氏が付くことになり、さらにその彼に呼ばれて私がセカンド助監督として途中から参加したのでした。
 そんな経緯があって、私がはじめてスタッフルームの梵天太郎事務所へ行ったときのことです。監督の前田憲二氏はそこにいませんでしたが、プロデューサーは昔私と行き違いのあった(「3-3 JAZZ&somethin elseの意味と映画との関わり」参照)千田由治氏で、プロデューサー補には甥子さん、主演・刺青師の恋人役に娘さん(新人)、その娘役に姪御さん(新人)と千田氏の血縁で固められており、カメラマンと前田氏の助監督は記録映画の方々です。多少なりとも劇映画の現場を知っているのは、企画者の梵天太郎氏と助監督の岡野敬氏、そして私だけでした。

てんやわんやの撮影スタート

 そもそもの発案が記録映画だったからか、刺青の現場を撮るという以外、製作はシノプシス(構成案)もスケジュール表もなく、具体的に誰を被写体に撮って撮影するのかも決まっていない状況下でのスタート。こちらは状況の変化を受け身で待っているだけで、劇映画のスタッフとしては堪え難い状況でした。
 その間、事務所では、スタッフを尻目に、梵天太郎氏が淡々とお客様に刺青を彫っています。そこで目にした刺青について少し触れておくと、体へ入れる黒(正確には紺に発色)は墨をよく擦り、それを顔料として針の束に染み込ませて彫り込んでいきます。彫り終わったら熱い風呂に入ると発色がよくなるとお聞きしました。
 そんな状況のさなか、ダラケた空気を変えるため、岡野氏は「梵天太郎が唐十郎の背中に刺青を彫ることになった」という話をこしらえ、少数のスタッフを集合させました。これはスタッフから緊張感を取り戻すための「嘘」です。この様な「嘘」は現場の世界では稀にありました。それこそ、嘘も方便ということです。
 そうして結局は、映画は梵天太郎氏の青年期の思い出話をもとに、画家を志していた青年が刺青という表現手段を発見するという設定とし、ドキュメンタリーから劇映画へと手法を変えました。
 そして75年12月、佐渡〜越後湯沢への5日のロケが決定。私が前田憲二監督とお会いしたのはこのときがはじてでしたが、小道具〜衣装の準備をして、ともかくロケーションを完了。撮影済みラッシュプリントを見ましたが、次の具体的方針は何も決まっておらず、未だシナリオもなしという状態でした。映画の企画はこの時点で暗礁に乗り上げ、梵天氏の胸中では前田監督案は消えました。

         『刺青』絵コンテ
 75年12月末〜76年1月、前田監督とプロデューサーをはじめとするスタッフには秘密裏に、梵天太郎氏との話し合いが正月を挟んで行われ、岡野敬氏がシナリオを書くことに決定。赤坂の東急ホテルに3日ほど缶詰になり、私もお手伝いしてシナリオを完成させ、梵天太郎氏へ渡しました。私事になりますが、私はこの映画の話の半年ほど前に弟をバイク事故で亡くしており、シナリオのラストシーンは、その追悼の意味をこめ、主人公がカワサキの750ccバイクで空中に舞いあがり、日輪の中に溶け込んで行く場面としました。
 梵天太郎氏はこの本を叩き台として藤城洋子氏に書き直しを依頼。監督は梵天太郎氏自身として製作は続行されますが、では現場での監督は誰なのかというと決まっていませんでした。私は岡野敬監督案を出しましたが、監督未経験ということもあり、梵天太郎監督に加え、プロとして経験豊富で予算の範囲内で確実に仕事のできる方を探すこととなりました。結果、テレビで活躍中の唐順棋氏が監督と決まりました。

刺青を前面に出した作品として映画は完成へ

 撮影にあたっては、『追跡』で知り合った構木久子氏に記録をお願いしました。私が撮影現場を指揮するチーフ助監督として経験不足だったことや、監督が二転三転したりスタッフ間での理解不足もあって、シナリオを消化するのが精一杯という状態でした。
 映画としての中身についていえば、池部良扮する盲目の刺青師という、現実にはあり得ない人物設定が映画に重みを与えました。また、梵天太郎監督の急な発案により、シナリオにはなかった、カルーセル麻紀氏のヴァギナから出てくる蛇の刺青を入れるという場面が追加されました。実際に墨を入れた針で線彫りを施していき、それを撮るわけですが、当然少々の出血もあります。そののち、線で仕切られた部分には色を彫って入れていきますが、これを芝居ではなく本当に彫っている様子を撮影するというのはまさに破天荒で、私に記録映画の面白さを教えてくれました。
 最後の撮影は、倶利迦羅紋紋の方々に集まっていただき全身を撮影する、スタジオ撮影となりました。このとき、紋紋の方々は高級車でこられ、スタッフ一同に豪華な弁当が配られたことが思い出されます。そして、あらためてライトを当ててみますと、刺青は美しい、凄いの一語に尽きるものでした。
 劇中の彫り師彫聖は伝統的な手彫りにこだわっており、その弟子の彫り師は刺青の機械彫りから総合芸術への発展を目指している設定です。ところが、現実の世界では、機械彫りを始めたのは梵天太郎自身です。つまり劇中の盲目の刺青師、伝統的な手彫りにこだわる刺青師、機械彫りから総合芸術への発展を目指す刺青師、この3人はすべて梵天太郎そのものなのです。
 ただし、製作に関わった自分が言うのも変ですが、作品としては、シナリオに機械的に沿って編集されたからでしょうか、編集ラッシュを見たところでは作品として焦点が定まっていない、話の筋が実際に刺青を彫る画に負けてしまっていて全体としてまとまっていないと感じました。そこでより高い完成度を目指して、私がアオイスタジオですれ違って知っていた篠田正浩監督の編集をされていた山路早智子氏にお願いし、再編集をお願いすることになりました。構成もシナリオから離れました。当初編集を担当された梶原氏はそれでも仕事から降りることなく、編集助手としてずっと付いていて下さいました。立派に責任を果たされたと思います。
 76年3月、山路氏のおかげで何とか作品として仕上がり、2日間のダビングへこぎ着けたことは望外の喜びでした。ダビング完成後は、編集済みプリントをネガ編集に預け、16mmシネテープ(音マザー)はサウンドトラック〜ネガフィルムに焼き付ける光学録音のため、リーレコ・スタジオへ持ち込みます。そして、画と音の素材が揃って現像所で1本の映画となります。映画関係者だけが体験できることですが、スタッフは現像所の完全な闇の中で零号試写を見ます(映画の劇場は完全な闇ではありません)。
 私は1976年3月20日にヤマハホールで行われた完成試写会までお付き合いしましたが、梵天太郎氏も満足されていました。作品としてはインパクトもあり及第点だと思いますが、撮影現場の混乱から、父娘の近親相姦というタブーを伏線に設定したにもかかわらず、タブーに対する挑戦という視点は薄く、また、ドラマ仕立てにしたために実際に刺青を彫っていることのリアルさも薄まってしまいました。船頭多くして何とやらの例えどおり、誰の作品なのかが明快でない、個性の薄さが不満でした。
 その後、私は自分自身のことで忙しくなってこの作品との関わりから離れ、劇場公開されたのか否かも縮小版ビデオが作られていたことも知りませんでした。
 やがて2022年、4Kリマスター版『刺青』が劇場公開されるという知らせが加藤弘氏からあり、数十年ぶりに劇場「ラピュタ阿佐ヶ谷」で完成版を見ました。40数年の時間の経過からか、かつての不満は払拭されました。若い旧邦画ファンの方からも及第点をつけられ、長年の鬱屈した思いが晴れていく気分を味わいました。
 刺青師梵天太郎の本領が発揮され、今では考えられない刺青を前面に出した作品としてのカルト的評価もあったと思います。

「ジャズと映画を発信する文化の中継基地」になる

 『刺青』が終わって、私はシナリオを基礎から勉強する必要を痛感しました。1977年に入ってシナリオセンター(シナリオ実習講座)の夜間講座を受講するようになり、そこで知り合った者3人と翌78年1月、シナリオ同人誌『MAIDEN VOYAGE』を起ち上げました。それは、同じ年の8月、白山下に映画の自主上映を主にした「喫茶・映画館」のオープンに繋がっていきます。
 「喫茶・映画館」開店の経緯は「1−2 窪地に建つ店に灯が点るのは4時」に書いたとおりですが、ここでは開店後の顛末を少し振り返ってみます。
 私自身は店の場所が白山であることには全く無関心でしたが、母は亡くなった次男が通った高校のあった土地だということが嬉しかったようです。私も母も喫茶店は客として行っておりますが、経営するのは全くの素人です。経営については店を開いてから勉強することとし、母との共同経営を考えました。この母と共同でという考えは、他人の目にはマザコン的に見えたかもしれません。
 ただし、店の方向性だけは、「文化の中継基地にする」と決めていました。私は助監督から監督になることを何よりも大きな目標と考えていて、シナリオ同人誌を発展させて週末に店で映画の自主上映でもできれば充分。平日は母に任せればよいぐらいに安易に考えていたのです。
 以前書いたこととかぶりますが、店を作るための改装工事は大工には頼まず、シナリオ同人の渡辺絹子(後に妻となる)に手伝ってもらい、私と二人で作って行けばいいと考えていました。映画のカチンコを巨大化してメニューとしたり、映画にはずいぶんこだわりました。
 店の壁面には書店のように映画に関連する同人誌を中心に集めて雑誌を展示、同時に自主上映をはじめとする独立プロダクションの映画のポスターを貼り、映画運動の小さな拠点となればと思っていました。シナリオ同人誌の他の仲間も応援してくれました。
 1週間試験営業をした結果、有線放送の音と内容が不満でこれをを解約し、オーディオ装置を自宅から持ち込んで、ジャズのLPレコードをかけることにしました。また、店での映画上映のための16ミリ映写機は『刺青』の初代監督である前田氏から購入したと思います。これでひとまず「ジャズと映画を発信する文化の中継基地」の形はできあがりました。
 その一方、私が店にいるときはこれでよいのですが、私のいないときのことを考えると、母やバイトではLPレコードのかけ替えは不安です。そこで、まだCDのない時代でしたから、レコードをカセットテープにダビングし、これをかけてもらえばよしと考えました。カセットデッキも、大奮発して高級機ナカミチ#1000を入れました。
 以後半年ほどは映画の仕事はお断りし、喫茶店でのバイト経験のある友人にカウンターの中に入ってもらってコーヒーと接客を勉強し、ウェイターに弟の友人だった子をお願いし、店づくりに専念しました。
 そして、これまた「1−2 窪地に建つ店に灯が点るのは4時」でふれたように、開店当初からシナリオ同人誌を始めた若者が喫茶店を開くということが注目され、さまざまな雑誌・新聞から取材依頼がありました。また、店の外装も私が書いた撮影機のイラストが目を惹き、雑誌『商店建築』の「秀作店の外装と看板」にも掲載されたことは嬉しくかつ驚きでした。一方、母は次男を思い出させるようなお客様との触れ合いを楽しんでいました。
 かたや私はただひたすら映画の発展、文化の広報に寄与したいと考えていましたが、それぞれの立ち位置を明確にしなかったため、母との乖離は当初思っていたよりも大きいと気づくことになります。この状態は上手く回転しているときはよいのですが、「喫茶店での映画上映」などに関する新聞の取材などが入ると、取材対象である店の柱が何なのか、店の名義人の母、私、そして応援してくださるスポンサーの方との間で行き違いが生じ、誰が船頭なのかわからなくなる混乱も生じてきます。話は前後しますが『刺青』のように監督が誰なのかわからなくて方針が出せず、場当たり的に迷走するといった状態です。一歩間違えば店の空気を変え、お客様との関係にも亀裂ができてしまう寸前です。
 結局、私はお客様との距離を取り、私の基本方針を柱に据え、実務面では母には手伝いとしてお願いすることにしました。しかし、皮肉なことに現実は私が撮影などでしばらく店を留守にしているときの方が店は活気があり、売り上げもありました。やがて1979年、店と私事に時間を取られた結果、『MAIDEN VOYAGE』4号は出すことができず、分裂〜廃刊となりました。
 映画上映によって常連のお客様はできていきましたが、そのお客様が日常の営業でのお客様となるわけではありません。反対に日常の営業は、弟を彷彿させる世代のお客様を中心に支えられていましたが、当店の推す多数の同人誌や映画、そして流れているジャズなどには彼らの関心は薄いように感じられました。
 この風景があっての店なのだと割り切るまでには時間がかかりました。

移転から18年後の2000年、映画製作とは縁を切る

 1982年、白山下の店が開店から5年になったところで、家主が建て替えを決め、そのため私の店は立ち退かなければならなくなりました。これは開店時から承知していたことで、保証金等はありません。このとき閉店を考えて、常連のお客様へお話ししたら、近くの場所で続けてほしいとの声があり、今でいうクラウドファンデイング形式でお金が集まり、現在の白山上へ移転することになったのは、以前書いたとおりです。
 白山上で新規開店するにあたっての指針はジャズと映画を柱に文化全般をうたった空間作りにあり、真空管アンプと自作のスピーカーシステムを前面に出し、テーブルの設定も家庭的雰囲気になりがちな要素は極力抑えるようにしました。オーディオの世界ではCDの時代が始まっており、私が映画の撮影等で不在のときは、母かアルバイトがカセットではなくCDをかける方式になりました。
 私自身は助監督から監督になったばかりで、映画の仕事に時間をとられます。そこで、月1回だった映画上映会は年に数回とし、その代わり、映画関係者をお呼びしてトークと組み合わせるなど、内容を濃くする工夫をしました。詩の朗読会も年に数回行い、これを10年余続けました。テーマを設定したトーク・イベントや舞踏・ジャズ のライブも始めました。
 平常はこの空間でのジャズ喫茶営業です。母にお願いしたときと私がいるときのどちらでも基本は変わりませんが、空気感はおそらく違っていたでしょう。そして、母にはずいぶん助けてもらいましたが、1990年、年齢のことも考え、70歳を迎えるのを機に引退してもらうこととし、店の名義を私に変えました。
 そののち、母が亡くなった際には、お客様からのお花が絶えませんでした。母を愛し懐かしんで、今でも母の話をしてくださるお客様がおられます。
 そんなふうに40数年営業を続けながら、オーディオは日々向上させてきました。限られた空間ではありますが、他の何処にもないジャズ喫茶をつくったと自負しています。上質の豆から1杯ずつ作るコーヒーも、お客様からは上々の評判です。
 お客様からは、映画人が何人か誕生しました。なかには、TVプロデューサーになられた方もあります。よく来られていたお客様の一人に作家の鹿島田真希さんがおられ、2012年に第147回芥川賞を受賞されました。作品の1つには当店が描かれています。
 一方、若い頃から志してきた映画では、私自身のプロデュース作品でもまた監督作品でも大きな賞をいただきました。店をやりながらとしては限界までやりきったのではないかと思います。
 そして2000年を機に、私は映画製作との関わりは完全に断ち、ジャズ喫茶経営に専念することにしました。

お客様に育てられ、お客様を育てて今の店がある

 話は前後しますが、『刺青』のリー・レコを行ったスタジオでは、録音機材がWestern Electric社製でした。Western Electricはトーキー映画のサウンドトラック・システムを開発した会社で、第一級の劇場では再生システムも同社製が多く用いられています。
 この気づきは、私のオーディオ熱に再び火をつけることとなりました。WEの資料を必死に集め、オーディオ〜音響工学を学問として捉える毎日が始まったのです。それはまた、私のオーディオ人生が先へ進むことでもありました。
 最近になって、嬉しいことにJAZZ KISSAが国際語になり、日本のジャズ喫茶を模範にした店が欧米で作られています。海外の書籍でも当店が紹介されており、海外のジャズ喫茶からメールでのご挨拶の連絡が来たりします。
 お客様に育てられ、お客様を育てて今の店があります。外国人のお客様も若者から中高年まで幅広く来店されます。比べるのは変ですが、その点でいうと日本の若い男子にはジャズ喫茶の壁が高いように感じられます。私がジャズ喫茶に通い詰めていた頃とは時代が違って来たということでしょう。
 それでは、次の時代に継承する文化として私自身が満足できるものを作り出せたのか否か。革新的文化を受け継ぐ次世代を作れなかったのではないかという疑問があります。それでも、若い方が新たにジャズ喫茶を開かれるという噂を耳にすると、それはそれで嬉しい気持ちになります。昔のような会話禁止のジャズ喫茶は望みませんが、何らかの形でジャズ喫茶文化は残っていくのだろうと期待しています。
 今日のいまも、私は私が選んだレコード盤をかけ、私が作ったオーディオ装置で再生しています。その空間でお客様は緊張しまた寛いでいらっしゃる、これが当店の日常です。
 これだけでよいのだろうか。何かやり残したものはないのだろうか。そんな自問自答の日々が続いています。この店は私の作った作品の集大成だと認めるべきでしょうが、どこかで安泰を求めて慣れに流されていないかが気になります。ジャズとオーディオと文化そして反原子力、貧困問題、社会問題等々の垣根を越えて何かを発信していってはじめて「JAZZ&somethin’else 喫茶・映画館」が成り立つのだと考えます。

「3-4 「ジャズと映画を発信する文化の中継基地」を目指して」への6件のフィードバック

  1. 猫と映画とジャズの喫茶というコンセプトには日常に魔法をかける化学反応がありました。私は学生時代からお店に通っています。虎太郎のしっぽの付け根を叩いて骨抜きにするのが何より楽しみでした。虎太郎はある時はテーブルの上に登りおもむろにジャズを聴き始めます。また食事をもらうときは私の前でも泰然として通り過ぎおしりを私に向けます。そんな彼がもういないのは寂しいことです。

    さて、私はこの十余年マスターの選曲に耳を傾けてきました。その中でマスターのお気に入り盤、人に聞かせるためのアルバム、自分で楽しむためのアルバムなどの違い、選盤の背景の思想などの傾向が少なからず掴めた気がしています。またお店の蔵書を通してマスターが出版物に寄稿する際に挙げている愛聴盤についても知見を得ました。今後マスターの選ぶ「私のお気に入り」を記事にする機会があれば是非読んでみたいです。

    1. 虎太郎を可愛がって頂き有り難う御座いました。コメント今後の参考にいたします。

  2.  今日夕方、初めて行った西野です。吉田さんと奥様のホスピタリティに、まだまだ初心者の私もリラックスして過ごすことができました。本当にありがとうございます。文化の発信源という“志”を、この文章で改めて拝見しました。素晴らしい音を堪能できる、素敵な場所に出会えたこと、本当によかったです。今後とも、よろしくお願いいたします。

    1. お越しいただき有り難う御座います。素敵なコメントに身の引き締まる思いです。今後ともよろしくお願い申し上げます。

  3. 前回の『市川崑シリーズ・追跡』の「汚れた天使」の顛末に続き、今回の『刺青』の話も大変興味深く読みました。映像制作の世界の我々の普通では知り得ぬ部分が垣間見えて、貴重な記録だと思います。

    また、吉田さんのお母さんが昼間に店に出ていらした頃に何回かお会いし、お話ししたことが記憶によみがえりました(なにしろ、僕の家は『映画館』まで歩いて4分の絶好の場所にあります)。そのとき「私は小説を書いているの」とおっしゃって原稿をチラっと見せてくださいました。話の中で「うちの息子は」というフレーズが何回も出てきたことが印象的でした。

    『映画館』で初めて聴いたジャズはたくさんあります。特にヨーロッパのフリー系にについては勉強させられました。ジャズは「好奇心の音楽」だと思います。知れば知るほど、もっと知りたくなって深みに嵌まる。これがたまらない。

  4. 母の事を覚えていて下さり有り難う御座います。ジャズは「好奇心の音楽」嬉しいコメントです。この文章を書いています励みといたします。今後とも宜しくお願い致します。

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