当店の看板にある「JAZZ&somethin elseのsomethin else」の意味を書きます。それは私がどのようにして映画と関わってきたか、すなわち当店が「映画館」を標榜する意味でもあります。
理系に進むはずが大道具手伝いとなって映画の世界へ
まずは子供の頃の夢の世界から。
ロケットを作り飛ばすことやモーターを作ることに熱中していたことがあります。小学生のときで、ロケットの本体は鉛筆のキャップに始まり鉛筆ホルダーへ。燃料の素材と入れ方で飛び方が変わり、2秒ほど飛んだときは大満足でした。
モーターはキットのコア材を買い、巻き付けるエナメル線の太さを変えてモーターの力の変化を楽しんだりしていました。低電圧では、極力細い線で巻き数を増やすと良いのです。
この頃は自分でも理系へ進むものだと思っていました。
しかし、高校生になると一変して毎日のように映画館へ通い、それが嵩じて、将来は漠然と映画監督になりたいと思い始めます。しかし、8ミリなどで自分の作品を作るという考えはなく、まずは撮影所システムの助監督を目指しましたが、助監督になる方法がわかりません。
そこで映画関係であれば何でもよいとの思いから、美術・大道具のアルバイトから始めました。実際の作業はセットの建て込みの手伝いで、家の壁などを組み立てる基本となるパネルの製作です。角材で3×6尺大の枠を造り、その上にベニア板を釘で止めてパネルをこしらえ、そのベニア・パネルに紙を筒状にして貼る「袋貼り」です。その袋の上に、再び紙を平面になるように重ねて貼っていきます。さらにその上に艶消しの泥絵の具を厚く塗っていくと完全な平面に仕上がります。この泥絵の具は、はじめての私には堪え難いほどの発酵臭が気になりました。
それでも泥絵の具を使うのは、撮影時、平面パネルにはライトの光源がどこかに映り込んでしまいますが、艶消しになるため、光源がどこにも映らなくなるのです。
このパネルを何枚か組み合わせて、部屋の壁を作ったりします。ここで使われるトンカチは片側に釘抜きが付いている、家庭用とは違う大道具専用の特別なものです。パネルを組み立てるときは、釘を打ち沈めずにトンカチの釘抜で浮かせて曲げて止めます。これはカメラの位置が変わった際にすぐに外せるようにする工夫です。
この仕事は美術というよりも単なる手伝いであって、大工でもありません。この大道具での体験は後に店「喫茶・映画館」を作るとき、写真映りの良い内装を作る参考になりました。
休憩時間にTVのチーフ助監督に話しかけると、大道具の手伝いをあからさまに見下したような態度。助監督とはそんなに偉い仕事なのかと思いました。
その後1か月程経って大泉の東映撮影所で知り合いの大部屋の俳優さんに会い、休憩室で俳優さんなどを紹介していただきき、ピンク映画の助監督の仕事があることを知りました。それが監督・向井寛氏との縁に繋がっていきます。
友人と二人で向井寛氏に直接連絡して喫茶店でお話をうかがい、助監督に採用されました。このとき、私は監督志望の助監督で、アルバイトの友人よりも高い金額のギャラを求めました。監督はこれを喜んで受け入れて下さいました。
向井プロダクションで時代劇の大作『戦国軍盗伝』(仮題)をつくることになり、ロケ現場に戦国時代の山城を作ることを発案。大道具の手伝いが功を奏し、ロケ現場に近い材木屋から丸太から製材した後の木の皮の部分の廃材をロケ現場への配達込みで安値で買い、その廃材で山城の塀を作りました。イメージとしてあったのは、黒澤明の時代劇です。これには向井寛氏をはじめスタッフに気に入られました。
ピンク映画としては珍しく10日以上かかり、編集済み試写を見ますとそれまでのピンク映画にはないスケール感がありました。上映時にはタイトルは変わっており、劇場では見ていません。
ピンク映画から、ひょんなことで市川崑監修のテレビシリーズへ
当時のピンク映画は35ミリのモノクロフィルムでの撮影が基本。ただし、商品としての売りである濡れ場だけはカラーフィルムで撮影するパートカラー方式でした。向井寛氏はこの濡れ場で人気の監督でした。
濡れ場へ繋がる話の部分は値段の安いモノクロフィルムで撮るわけですが、この部分は割合と監督の自由に作れます。助監督兼制作進行である私は自分の責任領域を超えた部分でも映画に関わることであれば何事でも顔を出し吸収していき、短期間にチーフ助監督寸前にまでなりました。
この世界のことが少し分かってくると、同じピンク映画の若松孝二監督の所ではジャズと関わりがあり、気になりました。しかし、向井プロの一員である立場上若松プロへは行けません。
濡れ場の撮影の多くはラブホテルを使いますが、リアルさを求めて一般家庭を使わせていただくこともあります。そんなときは相手方に台本の表紙だけを見せますが、そこには例えば松竹映像企画とか書かれていて、ピンク映画であることはわかりません。それはよいとしても約束の時間が過ぎてもなかなか撮影が終わらず、最後には喧嘩寸前の気まずい状態で後にすることもあります。当方の言っていることと実際にやっていることでは違いがあり、私はそこに疑問を持ちました。私自身が若かったこともあり、方向性の違いから向井寛監督とはしばらく距離を置くことになります。
私は仕事の空いた時間には毎日「響」や「DIG」をはじめ都内のJAZZ喫茶を梯子しており、少しずつですがレコード盤も買いました。
その後、経緯は記憶にありませんが、記録映画の監督とプロデューサーだと称する千田某氏に会い、六本木のアパートの一室に案内され「この部屋はみんなで金を出し合って借り、仕事を紹介し合っているのだ」と説明されました。このときたまたまそこに来ていた方から「観光船のPR映画」の助監督の仕事を勧誘され、その映画の製作会社はこのアパートに近い場所で、仕事をお受けすることにし、資料をいただきました。ところが、2〜3か月待っても撮影は始まらず結局は没ということに。しかし、そのとき担当者から代わりに市川崑監修のテレビドラマの途中第9話からスタッフとして交代して付くという仕事の紹介があり、私は大喜びで受けました。
テレビドラマというのは市川崑監修の『市川崑シリーズ・追跡』で、関西テレビ、C.A.L(シー・エー・エル)と市川崑氏が立ち上げた「活動屋」の共同制作作品で、私の担当は仕上げ進行でした。
前任者からの受け継ぎのため2〜3日の間は関係者を次々に紹介され、仕事の責任範囲をお聞きしました。麻布十番のアオイスタジオにある編集室がメインの仕事場となり、16ミリで撮影された全フィルムを見てから粗編集、その後で市川崑監修によるオールラッシュ試写〜本編集〜ダビング〜完成試写となります。
私の仕事は彼らが気持ちよくスムーズに仕事が進められる環境を作ると同時に、編集の途中で生じたオプティカル処理のためにその部分をネガ編集から切り出してもらって東洋現像所へ届け、その翌日、オプティカル処理の上がったポジフィルムを受け取ってポジ編集へ渡すこと。ダビングの準備として、場合によってはフジテレビからレコード音源を借り受けることもありました。ダビング後、画のダビングロールをネガ編集へ届け、音のシネテープはリーレコ(再録音)へ、そして画と音のプリントされた完成プリントを東洋現像所から請け出し、関西テレビへは中央郵便局から空輸便で、フジテレビへは直接届けるまでが仕事の責任範囲です。
アオイスタジオは東京でも一番大きな映画録音スタジオですが、あくまでも映画の録音スタジオです。TBMレーベルのジャズの殆どの録音がこのスタジオで神成芳彦氏によって行われたというのは驚きです。
このスタジオの6階にある大きな編集室がメインの仕事場で、部屋の真ん中にある編集機をはさんで編集者と助手が向かい合わせに座り、記録の指示に従って粗編集を進めます。この粗編集が大変で、シーンの頭から順に撮っていくわけではありません。撮影現場では状況に応じて効率的に撮りますので、記録はその撮影全カットのシーンとカットナンバー、撮影状況を記録用紙に記していきます。
現像所からは撮影順にラッシュ(ポジ)プリントが上がって来ます。同時録音の場合はスタジオで6ミリのオリジナルテープから16ミリ・シネテープへコピーされます。編集ではこのラッシュプリントとシネテープをシーンとカットナンバーに従って切り出して整理していきます。この整理整頓が重要で、次に記録の立ち会いで記録用紙を読みながらOKカットを繋いでいきます。
テレビシリーズ第15話は唐十郎監督の「汚れた天使」
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しばらくすると、千田某氏からスタジオへ電話がありました。「グループ関係者の紹介で仕事に就いたのだから、ギャラの一部を自分達のグループへ出せ」とのことでした。私は「観光船のPR映画の助監督はあの部屋の方からお誘いを受けた仕事ですが、2〜3か月無収入で待機させられ、その保証もありませんでした。あの部屋の会員に参加もしていませんし、千田さんとは関係がありません」と拒否しました。いろいろ言っていましたが、千田某氏とは一度会っただけの間柄。こんなことで金銭を要求する人間性の低さに唖然とするばかりでした。千田某氏とは、その後思わぬところで、立ち位置が逆転した形で再会することになります。
この仕事は、その気になればいくらでも勉強できる環境にあります。私は絶えず半歩前を進んで、スポンジのように多くを吸収していきました。ネガ編の助手の女性からは、多くのことを訊きすぎたのか、「仕事は習うものではなく盗むものだ」と怒られましたっけ。
一番の悩みは、予算がらみでした。1話分での仕上げ予算は前任者と大きく違ってはならないというのが大前提でしたが、途中参加ということもあり、低予算の映画をやってきた私には、その金額が多すぎて使い切れずに余ってしまうのです。
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ダビングは唐十郎監督を中心に行われ、アフレコには李麗仙、根津甚八、小林薫、不破大作、十貫寺梅軒、大久保鷹、他女優らが参加しました。
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しかし、事態は暗転します。翌日、製作会社の関西テレビより突然の通達があり、「内容が非常識で猥褻な表現は家庭で見るテレビに則さない」とのことで放送は中止となりました。全スタッフが緊急に集まり、この通告に反対の声明を出しました。
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ダビング終了後、通常では監督は帰宅されますが、富本壮吉氏は私を待っていて、氏所有のオースチンのクラッシクカーでネガ編の所まで送って下さいました。そのとき「自分の作品はテレビドラマの安全パイで、代替えだ……」との愚痴をこぼされたのが、異例のこととして記憶に残っています。
テレビドラマは家庭の団欒の延長にあり、例えば時代劇の斬り合いでも、リアルに考えれば血が流れてもがき苦しんで死んでいくはずですが、視聴者との暗黙の了解と自主規制により、団欒を壊す表現のカットは入れません。「汚れた天使」は凄惨なカットはありませんが、平和で安寧な団欒とは反対の差別された集団の人物設定と猥雑さに満ちています。そこがこの作品の最大の面白さです。
今は故人となられましたのではじめて公にしますが、東京のプロデューサーT氏より「汚れた天使」自主上映の話をいただきき、参加しました。私が仕上げ進行として編集ラッシュプリントと16ミリ・シネテープ関連資料を管理していたからでした。このラッシュプリントとシネテープは私が持ち出し、状況劇場へお渡ししました。
その直後に東京の製作会社である、C.A.LのプロデューサーS氏がプリントとシネテープの回収に来られましたが、既に手元にはありません。後年、この、C.A.LのS氏よりシノプシスを書く仕事話をいただきましたが、私には時間がなく、この仕事は当時付き合っていた渡辺絹子がしばらく続けました。
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週刊新潮・誌上試写会は3ページにわたって掲載されましたが、今思い返しても、大胆なことをしたと自戒の意味を込めて思います。当時は若かったこともあり、この作品が埋もれてしまうことに無念の思いがあり、青臭い正義感もはたらいたのでした。
製作会社から暗黙の追放宣言を受ける
「汚れた天使」自由劇場での一般公開の翌日、私と監督補の岡野敬氏の2名が製作会社から暗黙の追放宣言が申し渡されました。
自主上映ではプロジェクターの回転スピードを選択するスイッチがSilnt・16コマになっていたため、1〜2分で音がズレてしまいます。このことに気づくのに時間がかかってしまい、その間、状況劇場の役者たちはスクリーンの前で寸劇を行ってしのぎました。スイッチを24コマに直してからは、スムーズに上映できました。
富本壮吉監督「天使の罠」放送直後の夜に編集のO氏から電話があり、自主上映を叱責され「あなたには2度と電話をしません」と断交を宣言されました。その後O氏は市川崑監督の劇場映画の殆どを編集として担当、「市川崑の懐ろ刀」と言われるまでになり、編集者として賞も受けています。
また同時刻に、担当プロデューサーより「追跡」の直接の製作会社である「活動屋」へ来るように呼ばれます。私は仕上げ進行の前任者にも来てもらうよう求めました。
そこは赤坂TBS前にあるCMの製作会社の一角に机を一つ置いただけの事務所で、ふだんは経理担当者が一人いるだけでしたが、このときは珍しくも市川崑氏とプロデューサー2名、さらに仕上げ進行の前任者も来られましたが、自主上映の話は一切なし。仕上げ費の精算をし、各位へご挨拶をして終わりとなりました。これが大人の世界なんだよなあと感じたことを思い出します。
市川崑氏は新しい映画を作って来られた方ですから「汚れた天使」に斬新さを感じないはずはありません。この事件の後に作られました劇場映画『犬神家の一族』での湖に浮かぶ2本の足のポスターは、「汚れた天使」からの何らかの影響があったのだと私は考えております。
市川崑氏は所謂市川組を作り、スタッフを余り入れ替えず育てていきます。この映画では私と監督補だったO氏を除いた「追跡」の多くのスタッフが参加しております。
これらのことは映画人として生きていく上での成長の基盤となりました。映画現場の裏話を長々と書きましたが、新しい作品で切り拓いていくとは何かという問いは、JAZZ喫茶をやっている今でも私の中に残っております。
時間の余裕ができて始めたオーディオ製作
話は変わりますが、この頃から時間の余裕ができ、自作オーディオの製作に取り組むこととなります。
真空管2A3の2本を1本にした双三極ロクタル管6BX7を使ったアンプをタムラの高級トランスを使って自作し、これが後に木製シャシーのアンプと発展します。
また、JBLのD216と云うヴィンテージ・スピーカーの新品を見つけ、奮発して買いました。20cmのフルレンジですが、低域〜高域のバランスのとれた音はそれぞれの楽器の音が誇張なく自然に聴こえ、現在まで音創りの基本となっています。D216ユニットの美しい作りにも感動しました。
映画人としての夢は持ち続けたまま、この後も映画の世界とは繋がっていきますが、それはまた次回に。
私は現在「JAZZ&somethin else 喫茶・映画館」を営んでいますが、真空管アンプに灯を灯し、お客様が来てコーヒーを入れて、JAZZのレコードを掛ける……そんな日常の行為で作る「空気と時間」が作品だと考えています。