4-3 開店45年目、さてどう乗り切るか

 今年2025年、「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」は、夏には45年目に入ります。これほど永く店を続けてこられるとは、開店時には考えもしなかったことです。
 そんな新しい年の初めにこの連載原稿が遅れてしまったのは、店をこの後どうするかを真剣に考え、また、自分自身の年齢を重ねると、残された時間は少ないと感じられたからです。
 現時点での店の存在を見つめ直すと、「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」という名称に繰り込まれている、3つの大きな柱があります。それらは、人々との出会いから大きな影響をいただき、方向性として定まって来たものと考えています。

店を成り立たせている3つの柱

 1つ目は「喫茶・映画館」です。
 この名前で店を始めたとき、店内のほぼ中央に16ミリの映写機を固定し、その前面には天井から下げるロール型のスクリーンを据え付け、常時映画上映の可能な環境を作りました。また、すべての壁面に私の好きな映画のポスターを貼り、書架を作って映画関連の図書を備え、図書館のように読むことができるようにしました。偏った範囲ですが、最新の映画情報も得られるよう、映画館から送られてきたチラシを配布しました。
 内装のレイアウトも自分の所有物を持ち寄って行いましたので、古い電電公社マーク入りの黒電話や昭和時代のNCRのレジスター、ねじまき式の柱時計数種が並ぶという光景でした。若い方に言わせると、昭和レトロということになるのかも知れません。
 そのようなことがあってか、当店をロケ地に選んで撮影された映画やテレビドラマもあります。例えば、映画では井筒和幸監督の『パッチギ! LOVE&PEACE』。テレビドラマでは松山ケンイチ、黒木メイサ主演の『オリンピックの身代金』。最近の作品では、館ひろし、神田正輝のダブル主演による『クロスロード』全6話の舞台になりました。この撮影のとき、館さんがスタッフに「この店は社長も来ているので粗相のないように」と言われたことは、私にとって良き思い出です。
 そんなこんながあって、「喫茶・映画館」という名前の持つ意味が明確になり、映画情報誌『名画座かんぺ』発行人ののむみちさんと知り合って『ミニシアターかんぺ』の石田・三木ご両人をご紹介いただき、結果、両誌を毎月配布するようになって10年以上になります。
 新聞配達をしながら東洋大へ進学し、卒業を間近に控えた男子学生から、当店のトイレの中、天井と床を除くすべての壁面に写真を貼りつめた「写真展」を10日ほどやりたいとの申し出があったのも、「喫茶・映画館」の時期です。トイレに限定という発想が面白くてお受けし、開催しました。ちなみに、写真はすべて「豚」を写したもので、今村昌平監督の映画『豚と軍艦』を想起させる写真展となりました。

ピーグラー写真展
 また、これに触発されてでしょうか、続いてアメリカ人ラッセル・スコット・ピーグラーRussell Scott Peagler氏の写真展を3度にわたって行いました。
 1回目は2007年5月の「ラッセル・スコット・ピーグラー写真展」で、夜遅くなってから写真展示の作業をラッセルたちと行っていたところ、母が入院している病院から「今亡くなった」との電話。親の死に目に立ち会えなかったのは残念ですが、その瞬間も仕事をしていたことは親孝行の1つだと自分を納得させています。話はそれますが、母には映画の仕事で私が留守中のときも店を維持してもらいました。いまだに母を大事に思っておられるお客様もおられます。嬉しいことです。
 2回目はチベットを撮影した写真展でしたが、金髪碧眼の青年がチベットの僻村へ入り込むとあって、中国の公安警察が彼をピッタリとマーク。そのため、撮影ができなくなったと聞きました。チベットからの出国時、なんとか生き延びた写真たちだとのことでした。
 そして3回目はその翌年、「4545」というタイトルで開催。東京の街の風俗をアメリカ人の目線から捉えた作品群が並びました。

JAZZレコード・コレクションの充実とオーディオのレベルアップ

 2つ目の柱は「JAZZ喫茶」です。

「映画館グループ」の集まり
 当店は、はじめから「JAZZ喫茶」を看板にしていた訳ではありません。手持ちのレコードの9割以上がJAZZで、それらJAZZレコードをかけていたというだけのことでした。前にも書きましたが、そこに1984年、神保町の「コンボ」に集まっておられたJAZZレコード収集家のグループが同店の閉店とともに次の店を探しておられ、グループのリーダーである田中氏と棚本氏が当店を視察に来られました。そして、当店が次の拠点として選ばれ、隔週土曜日の集まりが生まれました。それが「映画館グループ」の成り立ちです。
 さらには、そのご縁で新たな紹介があり、「映画館グループ」の集まりのない週の土曜日には、大和明氏、岡村融氏、岩味潔氏らHOT Clubのグループがこれまた隔週のサイクルで来られるようになりました。
 とりわけ、現役バリバリの収集家が集まる「映画館グループ」が当店を定期の試聴場としてくださったことは店に大きな変化をもたらしました。自分で言うのもおこがましいですが、「ただ単にJAZZをかけていた店」が、レコード収集家の間で一定の評価をいただけるJAZZ喫茶へとランクアップされたのです。
 それとともに私自身のレコードの買い方も変化し、小島録音、アケタディスク、自主制作盤、ヨーロッパ・ジャズ等々へと拡大していきました。ヨーロッパ・ジャズの貴重な新譜は、必ず発売前に予約を入れて入手します。それらは、発売が話題に上ると、たちまちのうちに完売となるからです。また、中古盤には新品以上の高値がつき、それも滅多に出ません。こうして当店のコレクションは充実していきました。
 これに応えるべくオーディオの質も日々高めており、限られた狭いスペースの中ではありますが、限界まで追求したと自負しています。
 高音用の市販のツイーターユニットでは、名機といわれるものであっても高域の力強いエネルギー感に不満を感じ、自作することになりました。素材としてのTAD2002ユニットは振動板が130ミリグラムの超軽量高硬度ベリリウムで、高域は22000Hzまでフラットにのびています。そこで、7N高純度銅線を振動板端子に直付けし、奥行き4cmの木製ホーンを付けました。これにより、高音がきれいに入っているアート・アンサンブル・オブ・シカゴの『ザ・スピリチュアル(The Spiritual)』(Freedom/Black Lion)なども、打楽器を叩き壊わす寸前の音が実にリアルに聴こえます。

微力ながらも社会貢献をめざしてsomethin’else

 3つ目の柱は「somethin’else」です。
 somethin’elseですから、JAZZにとらわれることなく発想は自由に広がり、いくつもの新しい試みがそこから生まれてきました。
 白山下時代からお付き合いのある荒川氏、吉川氏らの自主講座・反核パシフィックセンター東京で展開されている「反核太平洋、公害を逃がすな!」運動を母体に発行されている『月報パシフィカ』『月報公害を逃すな』という情報誌があります。これらを店内で閲覧可能としました。
 2011年の東日本大震災は福島原発事故を招き、人間の愚かさに刃を突きつけました。日本政府、そしてこの原発を作った人間でさえも自力では制御できない未曾有の大事故は、いまだに終息の兆しさえ見えません。多くの人が「故郷に帰れない」という現実があります。
 この東北震災に対する復興支援活動では、当店の地域では向ヶ丘の寺院が活動拠点の場所となり、宗派を超えて人が集まり、炊き出しを作りそれを運び、それぞれが自分のできることをやりながら協力し合い、そうして人の輪が広がりできあがっていきました。
 その1つ、プロジェクトFUKUSHIMA主催の東北を応援しようのスローガンのもと盆踊りの開催や野外コンサートが大々的に企画され、ギタリスト大友良英氏や音楽家、詩人が協賛しました。「未来は私たちの手に」を合言葉に盆踊りの櫓を飾るのぼり旗への協賛金を今でも毎年送っております。盆踊りが終わると、のぼり旗が送られてきます。
 8月13〜25日には「チベットからフクシマへ・野田雅也」写真展とトークを開催しました。野田氏は10年以上にわたりチベットから中国の核実験場、ヒマラヤを超えて亡命するチベット難民を撮り続け、福島原発事故では規制線の張られる前の12日から撮影をされています。当日展示された写真は「MOTHERLAND Tibet to Fukushima」と題された冊子にまとめられ、当店で閲覧可能です。
 ここで知り合いになった市原みちえ氏は死刑囚・故永山則夫の最後の面会人で、彼の全遺品を管理されて「いのちのギャラリー」を運営されておられる方です。2013年11月9日に相倉久人ジャズトークの特別企画として映画監督・足立正生氏とともに市原みちえ氏をお呼びし、足立監督の『略称・連続射殺魔』上映とトーク・イベントを司会進行・長門竜也、協力・JAZZ MORITATEYERのもと開催しました。
 また、当店からは若干の距離がありますが、谷中・根津・千駄木を中心にした芸工展という街中が美術館という展示会にもお誘いを受け、何度か参加しました。このイベントは雑誌『谷中・根津・千駄木』の編集者、梶原理子氏のご尽力によるものです。それに付随して「不忍ブックストリート」という地域だけの地図にも当店を掲載していただいています。こちらに関しては、池の端にある「古書ほうろう」さんのお力添えをいただきました。
 2015年には講師・桜井均氏、協力・映像ドキュメント.comにて「戦後日本と憲法を考える」とハードルの高いテーマでのトーク・イベントも行いました。当店制作の小冊子も、当店書架にて閲覧可能です。
 「映像ドキュメント.com」桜井氏は、2016年に年齢が「満18歳以上」に引き下げられたのを記念して『18歳のレッスン』全11本を制作。そのうち7本が荒川氏、吉川氏らの自主講座メンバーの全面協力をあおぎ、当店にて撮影されました。ネットに上げられておりますのでご覧いただけます。
 また、当店ご常連のT氏が反原労として毎月経産省前で配布されていらっしゃるチラシは第447号を迎え、まもなく500号となります。

 イベント開催は多くの人の協力のたまものです。これらの人々との出会いがあり、お互いに影響しあい、そして「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」は当店独自の店の形を作って来たのだと考えます。
 つらつらと思うのは、店は店主の考えに共鳴されたお客様によって作られていくということです。様々のご縁が良い方向に向かい当店が44年も続けられたのは、良いお客様に恵まれたのだと感謝しかありません。

4-2 趣味で始め、主観で営んできた44年

創業45年目を控え、劇場用パワーアンプを導入

 2023年も12月となり、残りはわずか。この「猫と歩み続けたジャズ喫茶―「JAZZ 喫茶映画館」の44年―」連載も回を重ねて10回目、第4章の2節にいたりました。来年夏には、店は創業45年目を迎えます。早いようで短い44年。これだけの歳月続けてこられたのも、お客様のおかげだという思いを新たにする今日この頃です。
 白山上に店を移し、「ジャズと映画、文化の中継基地」を目指して店名を「JAZZ&somethin’ else・映画館」としてからもすでに39年。何かを発信したいとウズウズしている者たちの溜まり場として開店時に目指したクオリティーを現在も維持できていると自負していますが、さて、どこまでやれるか。自分自身の引き際を考えなければならない年齢となり、体力、気力、集中力の衰えを感じないわけにはいきません。
 このような日々だからこそ、最後の力を振り絞って、米国IPC社製の劇場用パワーアンプAM-1027型2台の導入を決意し、今日12月20日に到着しました。早速、当店のアンプに合わせたスピーカーケーブルの出力端子を作り、ハンダ付けで仮留めして繋いで音出しをしました。
 しかし、1台は静かでクリアーな音でしたが、もう1台は電源ノイズが酷くて使えません。このアンプの重量に押されてでしょうか、シャシーの左端の電解コンデンサーが付け根から折れていました。
 もっとも、このコンデンサーの交換だけで済むようでしたら、修理は簡単です。これは1940年代後半から50年代にかけてアメリカの映画館で多く使われていたパワーアンプで、最もポピラーな真空管6L6を2本終段に使ったプッシュプル型です。これを当店の仕様とBTS規格に合わせて少々改造して使えるようにしていきます。
 高級な封切り映画館では、日本でもアンプからスピーカーまでWestern Electric社製かRCA社製のサウンド・システムでまとめられていました。一方、その次のクラスの映画館では、このIPC-1072型パワーアンプを使われていた例が多いです。

「映画館グループ」の力を借りて集めた貴重盤

 店名の「JAZZ&somethin’else」中一番肝心なJAZZの部分では他店にはない貴重盤も多少はあり、それら貴重盤のかかる店として知られるようにはなりましたが、これについては自力で達成したというよりもレコード・コレクターの集まり「映画館グループ」の力が大。彼らが持ち込んできたレコードをかけたり、彼らの話から得た知識をもとにレコードを購入した結果です。
 1984年、それまで神田神保町の「コンボ」に集まっていた彼らは、同店の閉店を機に次の店を探しており、グループのリーダーである田中氏と棚本氏が当店を視察に来られたのでした。そのとき、私はジョン・コルトレーンの『LIVE AT MOUNT MERU』を含むスウェーデン盤初回プレス全5枚セットをお見せし、かけました。その結果、コレクター目線のお眼鏡にかなったようです。
 以来、当店をグループの拠点として奇数土曜日の夕方から集まり、その後マスコミでの紹介のおり「映画館グループ」と名付けられ、40年近く1回も休むことなく続けられています。彼らから譲っていただき、今では入手困難となった貴重盤も多数あります。
 最近では、2023年12月第1週にはグループのS氏がその日に50万円で購入したというKenny Dorham『quiet kenny』(NEW JAZZ 8225)を持ってこられました。当店にある最もオリジナル盤に近い日本盤と比べたところ、ジャケット写真がクリアーで、盤も新品同様。以前の持ち主は保存用として持っていて、一度も針を通していなかったようです。
 こういったジャズ・レコードのコレクションへの情熱には、いつも感服させられます。そして、そのレコードに針を落として聴けるというのもまた店主冥利につきます。

一番力を入れてきたのは、基礎から勉強したオーディオか

 「JAZZ&somethin’else 喫茶 映画館」は私の趣味で始め、主観で営んできた店です。
 結果として一番力を入れてきたのは、基礎から勉強したオーディオかもしれません。以前も書きましたが、プレイヤーからパワーアンプ、そしてスピーカーでは低音専用ボックス、木製・中音用ホーン、高音用ツイーターにいたるまで自作です。参考にしたものはトーキー映画のサウンド・システムを発明したWestern Electric製で、その劇場用アンプは憧れの1つですが、店の開店時にはすでに高価になっており、私には買えませんでした。しかし、友人が購入した「難あり品」を修理〜復元してさしあげたことが何度かあり、その作業を通じてWE社のアンプ作りの思想性が理解でき、勉強にもなりました。集めたWE社のアンプ関連資料は、コピーですが、厚さ20センチ以上になりました。
 当店で使用しているレコード・プレイヤーは、NHK仕様で力の強い、デンオンRP-52です。局ではターンテーブルを常時回転させていて、上板の薄いターンテーブルの上にレコード盤を置き、レコード針を曲の頭にセットして、クイックスタートさせて使いますが、当店ではクイックスタートの必要はありません。そこで、入手と同時に薄いクイックスタート・ターンテーブルを外し、8ミリ厚の両面研磨ガラス板をセンターに7ミリの穴を開けた340ミリ径の円盤に加工してもらい、ターンテーブルの外周に対して1ミリの誤差もなくぴたりとはめ込んでいます。
 製造から半世紀以上経過して、近年アイドラーゴムのノイズが気になりだしました。そこでモーターノイズを完全に切り離せるマイクロ製糸ドライブプレイヤーを導入し、交互に使用していました。そんなある日、当店のお客様で東大の研究所等からの依頼でどんな小さな部品でも作っておられる白石治様とお話をしたところ、アイドラーを作れると知り、オリジナルの軸受けへは交換用アイドラーのゴムを作り、さらにセラミックを素材とした軸受けとアイドラーのゴムを作っていただきました。
 できあがりを見ると、最新の素材で作ってありますから、プレイヤー製造時以上の性能を確保。アイドラーのノイズは皆無となり、糸ドライブプレイヤーを使う必要もなくなりました。

相倉久人氏から瀬川昌久氏へと続いたジャズのトークイヴェント

スコット写真展
 一方、店名の&somethin’ else(何でもある、特別な、の意)の部分では映画の上映会に始まり、詩の朗読会、舞踏とジャズのセッション、写真展、トークイヴェントなど考えうるかぎりのさまざまな催しを行ってきました。ジャズよりもこれらのイヴェントで他店とは違うジャズ喫茶としての足跡を残してきたのではないかと思えます。
 2011年の東日本大震災と福島原発の事故の衝撃は大きく、以降当店で開催されるイヴェントも原発の存在が無視できません。ご常連のお客様の一人冨田修氏は原発の危険性を訴えたビラを40年以上にわたり経産省と国会前で配布されています。また、同じくご常連であり、社会派運動の集団「映像ドキュメント.com」の創設者である桜井氏、吉川氏、荒川氏は、2011年、18歳選挙権取得に関連した『18歳のためのレッスン』(約60分)全11本のうち7本を当店で撮影されました。そのうち澤地久枝氏の会では、冒頭に虎太郎が出演しています。これは、当店ホームページのClip Boardでご覧いただけます。2015年10月には、同じメンバーでトークイヴェント「戦後日本と憲法を考える」を開催しました。
 ジャズに関わるトークイヴェントとしては、ご常連のJAZZ Moritateya・福原賢治氏との相談で相倉久人氏のトークを企画し、長門竜也氏の構成協力のもと、「相倉久人炸裂ジャズトーク〜ジャズは世界にどう突き刺さったか!」として起ち上げました。その第1回は2013年4月、瀧口譲司氏の司会進行により開催。25名の方々が集まり、満席となりました。
 同じ年の11月には、特別企画として映画監督の足立正生氏、死刑囚・永山則夫の全ての遺品の管理者である市原みちえ氏をゲストにお招きして足立正生監督による映画作品『略称・連続射殺魔』の上映とトークイヴェントを開催。映画製作の趣旨、相倉氏が音楽監督をつとめられた映画音楽録音時の裏話などをお聞きしました。
 さらに、2014年12月には第9回としてゲストに伊藤銀次氏をお呼びして「〜70年代、相倉久人は何故ジャズから去ったか〜」をテーマに開催。そして、「炸裂ジャズトーク!」は2015年1月31日の第10回まで続けましたが、相倉久人氏の体調不良でご入院のためここで一時中断。残念ながら同年7月8日、相倉久人氏は83歳で逝去されました。悲しいことでした。
 2015年10月1日に学士会館で行われたお別れ会「相倉久人氏を送る会」で配布された追悼の冊子「さらなる<出発>〜相倉久人」の見開きには当店トークイヴェント時にスピーカー前で撮られた写真が使われています。
 ジャズに関わるトークイヴェントとしてはもうひとつ、2014年6月から始まった瀬川昌久氏による「瀬川昌久白熱ジャズトーク」があります。相倉氏によるトークイヴェントとはひと味異なり、その内容はジャズ史講座へと発展していきます。
 2016年12月10日の第4回「李香蘭とその時代〜次世代に語り継ぐ・戦争をさせないために〜」は瀬川氏からの提案で開催にいたったもので、のむみち氏が司会進行、映像ドキュメントが撮影〜配信を行って下さいました。そしてこれが瀬川氏のトークイヴェントの総集編となりました。
 お話は李香蘭主演の幻の映画『私の鶯』(1943年、満州映画協会・東宝共同制作)で始まり、戦時中のジャズ音楽禁止への反骨から押し入れで聴いたジャズ、学徒出陣と戦後の復員、ジャズイヴェントの開催、戦中に共通する反知性のお話、そして今の時代にまで通底する危険を熱心に訴えられました。
 知性のある学生が戦争反対を口にできず、特攻へと志願させられて自ら死を選んだのは、いまも大きな疑問です。社会の雰囲気が自身の命よりも大きかったのでしょうか。戦争の惨さはいまの時代へと繋がるように思います。
 瀬川氏は2021年12月29日、97歳で逝去されました。打ち合わせのためにお宅へお邪魔しますと、いつも貴重な資料を次の世代へ繋げたいとおっしゃって見せてくださったことが忘れられません。瀬川氏、相倉氏とともに年月を重ねられたのは、当店にとっても大きな財産です。その志に恥じないようにしたいと思っております。

言葉の「重さ」と「詩」の朗読会

 話は少し脇にそれますが、私なりに戦前から戦中の歴史を整理してみます。
 1932年に五・一五事件、33年に京大滝川事件、35年に天皇機関説問題、36年に二・二六事件が起き、38年には国家総動員法が発議され、39年のヨーロッパではナチスのポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発。40年10月には国内に大政翼賛会ができ、思想・言論の弾圧は自由主義から常識的な学説にまで及んでいき、そして41年12月には真珠湾攻撃で日本も世界大戦に突き進んでいく……。
 石橋湛山氏は1930年代から軍事力による膨張主義を批判し、平和な貿易立国を目指す「小日本主義」を『東洋経済新報』の論説で展開提唱していました。また、斎藤隆夫氏は1940年2月の衆議院本会議にて「反軍演説」を行い、米内光政首相を追及。その結果、3月7日の本会議で除名処分が議決されて衆院を辞任しましたが、1942年の総選挙では翼賛選挙の中にもかかわらず兵庫県5区から出馬して最高点で再当選を果たして衆議院議員に復帰しました。
 しかし、これら「小日本主義〜反軍国主義」が国民的運動になることはなく、新聞〜ラジオでも自らの取材による報道がされることはなく、「玉砕」「特攻」「転戦」という言葉を使って事実を曖昧にし、正しく伝えていませんでした。瀬川昌久氏は、今の時代には戦中へ向かっていたかつてのときと同じ空気を感じると何度もおっしゃっておられました。
 言葉には「重さ」があります。2000年になってから、私は「言葉の重さ」を意識するようになり、「詩」の朗読会を偶数月の土曜に店で始めました。参加していただいた方のうち何人かは、詩集を出版されました。
 この朗読会に参加されていた村田活彦氏は現在、毎週土曜日24時から「渋谷のラジオ」にて「誰も整理してこなかったポエトリー・リーディングの歴史」を放送されています。私は、1920年代〜40年代のアメリカでジャズをバックにしたポエトリー・リーディングが行われていたことをこの放送から、レコード再生から知りました。そこで演奏されているジャズは、モダン・ジャズの先駆けです。
 一方、戦後のモダン・ジャズの時代にあっては詩とジャズのレコーディングの数は少ないものの、日本人では白石かずこ氏がサム・リヴァースの演奏をバックにコルトレーンを追悼した「KAZUKO SHIRAISI」、沖至・吉増剛造両氏による「幻想ノート〜古代天文台」が知られています。
 吉増剛造氏は2004年3月の当店での朗読会にお越しくださり、太田省吾氏、豊島重之氏と「新しい劇言語にむけて」の対談を行い、さらに自作の詩を朗読してくださいました。これについては「現代詩手帖」04年4月号に掲載されています。氏の朗読の時は、お客様全員が物音1つ立てずに静寂の中で聞き入っていました。
 それから18年後の2022年に当店にて開催された坂田明+瀬尾高志ライブでは、坂田明氏が1stステージでは平家物語の一節を、2ndステージでは谷川俊太郎の詩を歌うようにリーディングされました。このライブは録音されて『SAKATA AKIRA X SEO TAKASHI Live at HAKUSAN EIGA-KAN』としてCD化。当店でも販売しています(¥2200)。

“JAZZKISSA”が共通言語になった

 映画関連では映画が縁で知り合って10年以上になるのむみちさんとは2018年に瀬川昌久スペシャルトークとして「宝田明『銀幕に愛をこめて』〜ぼくはゴジラの同期生〜構成・のむみち、刊行記念」を行いました。のむみちさんは「名画座かんぺ」と題して旧邦画に特化した上映スケジュール表を毎月お一人で制作され、各映画館などで配布されている方で、昨年その10周年を記念したささやかなお祝いの会を当店で行いました。ゲストにはウクレレ奏者のノラオンナ様をお迎えし、また小西康陽氏からも祝電が届くという楽しい会でした。
 その姉妹紙として妹世代の女性2人組が他の劇場を紹介される「ミニシアターかんぺ」を発行されており、この両紙を合わせると東京での殆どの上映が分かります。当店で映画上映があるる場合も書いていただいています。
 このように振り返ると、すべてのイヴェントが人との関わりの中から生まれていて、私一人の発案ではとてもできないことがあらためて実感されます。イヴェントにはそれこそジャムセッションのような楽しさがあります。
 ジャズ喫茶としては外国からのお客様も増えて、今では外国でも“JAZZKISSA”が共通言語になりました。驚きと同時に、昔に比べて日本人の若者のお客様が減ったことをつくづく感じます。現在のような閉塞した時代にしてしまったのには、私たち世代の責任も大きいでしょう。それでも、どのような時代にあっても、新しい文化を模索し、創っていくのは若者です。今ひとつ頑張って欲しいと願うのは、私が老境に達しているからでしょうか。

 「JAZZ&somethin’else・映画館」の店内は、イヴェントスペースとしては不十分なつくりです。その都度、テーブルや椅子の配置を変えて空間を作って対応してきました。それでも今日まで続けて来れたのは支えて下さった皆様のおかげです。感謝申し上げます。
 まだまだこれからだと思ってもおります。今年もあと数日。本年もお世話になりました。
 来年もまだまだ連載は続きますのでよろしくお願い申し上げます。

第4章 JAZZ 喫茶映画館の航跡 4-1 わずか100枚でスタートしたレコード・コレクションは今

レコード総数100枚ほどでスタートした「喫茶・映画館」

 ジャズ喫茶にとっては、どんなにオーディオ・システムが良くても、かけるレコードがなければ営業は成り立ちません。オーディオがジャズ喫茶の心臓なら、レコードは血液です。また、レコードに対する知識も重要な部分です。ジャズ喫茶で一番肝心なのは、ジャズに対する愛だと言い切っても過言ではないでしょう。
 グレードの高いオーディオ・システムであった方がベターですが、それがなくともジャズ愛があれば自然と店主の個性を反映してレコード・コレクションも充実し、非科学的表現ですがオーディオさえもジャズに染まっていきます。当店も、ジャズ喫茶の命であるレコード・コレクションの内容をある方向へ向けて充実させてきたと確信しています。
 1978年に白山下で「喫茶・映画館」を開店した際のコレクションは、コルトレーンの20〜30枚のレコードを中心とする総数100枚ほど。接客業には素人の私が、映画の仕事を続けながらジャズ好きのお客様に引っ張られてレコードを買い足してやって来たというのが実情です。たまたま持っているレコードの8割がジャズであっただけで、開店当初からジャズ喫茶を意識していたわけではありません。
 しかし、82年に白山上で新店舗を「JAZZ喫茶・映画館」として作ることになり、今度はそれまでの経験を加味しながら、ジャズ喫茶のプロとしての意識を持って店舗の工事をゼロからスタートしました。今にして思えば、赤ん坊がハイハイしてつかまり歩き出したようなものでした。
 わずか100枚でスタートした白山下の店でしたが、それでも開店以後はハード・バップから初期フリー・ジャズ、日本人アーティストのアルバム、ロシア周辺の国々などのアルバムを意識して集めるようになりました。
 レコード収集を始めるきっかけになった、『スイングジャーナル』誌の臨時増刊号『幻の名盤読本』という本があります。70年代前半、学生時代によく通っていた神田神保町のジャズ喫茶「響」のマスター・大木俊之助さんから紹介を受けて知った1冊ですが、実はそのときこの『幻の名盤読本』の編集の手伝いをしてみないかというお話がありました。そこでスイングジャーナル社を訪ねて当時の児山紀芳編集長にお会いし、数百枚が書かれたレコード・リストを見せられました。
 ところが、そのリストのうちで私が知っているレコードは60年代後半以降のものに限られ、それ以外はタイトルを見てもアルバムが目に浮かばない、実体のわからないアルバムが殆どでした。また、マイナーなレーベルについても多くを知りませんでした。このとき、私は「知らない」ということを教わったのでした。
 アルバイトとして参加することは可能でしたが、足手まといになるのは避けたいという気持ちがあり、さらに当時の私は映画人としての自立を考えておりましたから、結局は参加を断念。大木さんもその旨を了解してくださいました。
 その「響」には、マスターご自身が作られたレコード・リストが常備されていました。リストは楽器・プレイヤー別に分けられており、すべてのアルバムのジャケットのカラー写真付き。ジャズ初心者にも分かりやすく、私の知る限り今もこれを超えるものはありません。
 手持ちのレコードが少ない私は、その代わりとして書架に関連本を揃えて並べることにしました。

週に一度のレコード店まわりで始まったレコード収集

 78年に「喫茶・映画館」を開店してからは自作の自転車(ロードレーサー)で店と家を往復する毎日でしたが、週に一度は電車で銀座の「ハンター」、御茶ノ水や新宿の「ディスクユニオン」、さらには高田馬場へとレコード店をめぐり、通称餌箱をあさってから店に入るようにしました。
 そんな折り、銀座のハンターでTBM(Three Blind Mice)レーベルの中期以降のアルバムの新品未使用が大量に出されているのに出会いました。このレーベルは新人を積極的に紹介しており、録音〜音作りもしっかりしていましたので、ハンターにあった全タイトルを購入。同レーベルのコンプリート・コレクションをめざしました。
 TBMは1970年6月に藤井武氏が設立された日本のジャズ専門レーベルで、録音の殆どが麻布十番のアオイスタジオで神成芳彦氏によって行われています。このスタジオは市川崑TVシリーズで半年ほど毎日通いましたから良く知っていますが、フリーの映画人にとっては最高峰のスタジオではあっても、それはあくまでも映画の録音スタジオとしての話。フルコンサートのグランドピアノなどはなかったと記憶しています。ここでジャズそれも大編成のビックバンドも録音されていたというのは、まさに驚きです。
 レコード番号はTBM-1から始まりTBM-78まで。その次に1000番、3000番、5000番シリーズがあります。TBM-1から10番までの初回プレスは重量盤で、レーベルのアルバム・タイトルとプレイヤー名に大きなフォントが使われていました。それが、11番からは普通の盤になり、レーベルも小さなフォントで統一されます。1から78番までのアルバムの再発盤は2500番が頭に付き、2501番などとなります。このレーベルの95%ほどが集まった時期、TBM社長の藤井武氏が当店を表敬訪問して下さったのは嬉しい出来事でした。
 そうして、次にはtakt -JAZZの7番、渡辺貞夫とチャーリー・マリアーノによる『イベリアン・ワルツ』に出合います。このアルバムに魅了された私は、takt Jazzシリーズのコンプリート収集を思い立ちました。タクト・レーベルはオーディオ・メーカーのタクト電気が始めた日本ジャズの専門レーベルで、ディレクターは谷口茂巳氏、小野正一郎氏。大森盛太郎氏の監修で1作目の渡辺貞夫『Jazz & Bossa』は1967年に発売されました。
 ジャケットの作りは凝っており、エンボス紙の薄紙のダブル・ジャケットの見開きにライナー・ノーツ4ページが貼り付けてあり、一方レコード盤側はエンボス紙で引き出しカバーを作り、引き出しは厚手の白いボール紙5枚重ねにLP盤の穴を開け、さらにボール紙の蓋が付けてあります。アルバムによっては通常のダブル・ジャケットもあり、終盤のJAZZ-13から17番まではシングル・ジャケットです。
 続いて3000番シリーズが数枚出されてのちレーベルはコロムビアへと移籍し、日野皓正『フィーリン・グッド』からは番号もXMS-10001から始まり、『イベリアン・ワルツ』はXMS-10012として再発売されています。

日本ジャズからヨーロッパ・ジャズへと広がるコレクション

 こうした収集の流れから、日本のジャズに興味が広がり、「Offbeat」「Marshmallow」レーベルのすべてと「KOJIMA録音」のジャズ全アルバムを集めました。「KINGジャズシリーズ」ではアルバムの存在さえ知らないものもありました。宮沢昭氏リーダーのアルバムは枚数は多くはありませんが、見つけるのも難しかったなか、コンプリートを完成させました。
 そして、この収集の過程でとんでもない大物に出合いました。「3-2 ジャズと出会った頃から」の項でもふれた、1961年ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルでのジョン・コルトレーン・クインテットのライブ録音盤を作るためのラッカー盤マザー・ディスクです。この録音は今日まで未発売で、当店にある盤が世界で唯一のものです。録音はレコード化を意識した録音というよりも記録として1本のマイクでスタッフが録音したようです。コルトレーンとピアノの録音は良いのですが、2本のベースとドラムスが不鮮明に感じられます。ラッカー盤をプレイヤーでかけると音溝が削られてしまい、マザーとしては使えなくなりますので、店ではCDに焼いたものをかけています。
 一方、ジャケットの凝った作りと演奏内容の高さでは、ドイツ・CBSで1963年〜64年に出された「1」〜「4」までのアルバムがあります。このアルバムは三つ折のジャケットの見開き部分にライナー・ノーツとLP盤を収めた白ジャケットが貼り付けられています。
 「1」はアルバート・マンゲルスドルフ『ONE-tension』、「2」はヨキ・フロイント『YOGI JAZZ』、「3」はアルバート・マンゲルスドルフ『Now Jazz Ramwong in ASIA』、「4」はヴォルフガング・ダウナー『DREAM TALK』で、それぞれのジャケットのアルバム・タイトルに整数の1から4がそれぞれ異なった位置に入っています。
 「1」の『ONE-tension』だけは国内盤がSONYより出されていますが、他は出されていません。「3」の『Now Jazz Ramwong in ASIA』はオリジナル盤が入手できました。「2」と「4」は再発LPを入手しましたが、ジャケットが全く違うシングル・ジャケットです。この三つ折の見開きジャケットがどうしても欲しくて、下記に記すコレクター達に声をかけてお借りし、三つ折の見開きジャケットを自作しました。DREAM TALKのEの活字が左右反対になっているのは、オリジナルに対する私なりの配慮からです。
 私のレコード収集ではアメリカのジャズでは三大レーベルをはじめ好きなところを買い、レーベルとしてはCANDID、TRANSITIONを意識して買い集めました。BLUE NOTEレーベルのオリジナル盤はやたらと買える価格ではありませんので、好きなアルバムの入手可能な盤を買い、徐々に買い直してオリジナル盤へと近づけていきました。
 60年代までのアメリカ・プレスの盤ではSTEREOとMONOが同時発売の場合はMONO盤の方が音にジャズ的力強さがありました。この連載で併走してして下さっている浜野智氏のご紹介で『ヴァン・ゲルダー決定盤101』という本の執筆陣に参加させていただき、あらためてジャズ・レコード盤の奥深さを知りました。
 ヴァン・ゲルダー氏が録音〜プレスまで管理していたBLUE NOTE盤は氏の個性が表れ、迫力のある音です。しかし他所でそれをプレス〜カッティングされた盤では音が全く違う場合もあります。日本で初めてプレスされた東芝のLNG番号とアメリカプレスでもUnited Artists盤は音が良くないと感じました。
 他所での再発盤であってもアメリカLIBERTY盤、日本ではKING盤は良いです。 2000年代に行方均氏が関わり東芝EMIで最後にBLUE NOTEをLPで出された盤は音がヴァン・ゲルダー録音に近くて音質も良く、盤質やジャケットも丁寧に作られています。KINGでレコード制作をされていた方から伺った話ですが、KINGでは送られて来たマザーに対しオリジナル盤LPを比較試聴加味しながら、マスターを作るとのことでした。BLUE NOTEプレスの2nd盤でもNY番地レーベルはヴァン・ゲルダー氏が管理したオリジナル盤と殆ど変わりません。
 1枚のアルバムを東芝LNG盤→KING盤→LIBERTY盤→NYレーベル盤→オリジナル盤と買い替えていったアルバムも何枚かはあります。そして、エリック・ドルフィー『OUT TO LUNCH』に限っては、MONOのオリジナル1st・ヴァン・ゲルダー・プレス盤(A面深溝入りレーベル)の迫力が凄まじく、STEREO盤〜MONO-セカンド・プレス盤ではその迫力を聴くことができず、結果として4〜5枚は買い直して持っております。

コレクターの方々から受けた大きな刺激

 90年代に神保町のジャズ喫茶「コンボ」が閉店となり、ある日、そこを拠点にしていたレコード・コレクター諸氏の集まりが当店を視察に来られました。ジャズ喫茶として気に入られたようで、その後、奇数土曜日に当店で集まりが開かれるようになります。レコード店では田中軍団と呼ばれていましたが、現在では10インチ盤収集の棚本氏や『OUR JAZZ』創刊メンバーの持田氏をはじめ「映画館グループ」と名付けられ、30年以上にわたり今でも続いています。
 彼らのLPレコードに対する拘りは凄まじく、takt JAZZ12番の『TOSHIKO MARIANO QUARTET』はこのtakt盤をオリジナル盤とうたって発売されていましたが、takt盤は実は再発盤で、初回発売は大阪の日本レコードでごく少数プレスされたものでした。その現物の帯付き完品をグループのメンバーから見せていただいたときは驚きました。俗に言う「幻の名盤」や珍盤の部類でも声を掛ければメンバーの誰かはそのオリジナル盤を持っています。
 彼らから教わるジャズレコードに関する情報は大きく、そのおかげで新譜限定発売のとき、今では貴重盤となっているものも新譜の安い価格で買えました。また、譲っていただいた貴重盤も多数あり、彼らの存在なくして当店のレコード・コレクションはここまでは充実できませんでした。深く感謝する次第です。
 この集まりの吸引力によって日本で一番古くからあるジャズファンクラブ「HOT CLUB」の方々も来られるようになり、そうした当店での集まりを大和明氏が「JAZZ HOT SOCIETY」と命名されました。超貴重なRockwell-ME503『Shotaro Moriyasu Memorial』の新品未開封の完璧なジャケットは、そのとき、Rockwellレーベル代表の岩見潔氏から名刺代わりに直接頂いたものです。ただし、内に入っていた盤は、守安翔太郎ではなく鈴木章治の新品未使用品でした。そのことをなかなか言えずにいましたが、意を決してお尋ねしましたら、守安の盤は岩見氏のところにも余りがないとのことで、代わりに鈴木章治を入れたとのことでした。そんな次第があって、土曜日の「映画館グループ」のコレクターにお願いして守安翔太郎の音源をCDに焼いていただき、それをジャケットに入れています。鈴木章治の盤は、それとは反対にME502『SHOJI SUZUKI QUINTET』のジャケットを表裏カラーコピーで焼いていただきました。2枚とも今では貴重品です。
 ビリー・ホリデイ研究家の大和明氏からは、ビリー・ホリデイのSP盤から起こしたアルバムをSONYから出す予定で作ったところ、ノイズがカットされてつまらない平板な音になってしまったとのことで、元のSP盤から録音し直した全24曲のCDを特別に頂戴しました。また、氏にアルバート・アイラーのファースト・レコーディングが「Something differnt」のタイトルで2枚組としてDIWより発売されたとお知らせし、そのA面をおかけしましたら、早々に買いに行かれ2枚を通して聴かれ良かったと感想を仰られ、ある意味で大和明氏=ビリー・ホリデイという固定観念がありましたから驚きました。良いジャズは誰が聞いても良いものであると認識を改めました。

ジャズと自由は手をつないで行く

 HOT CLUBの岡村融氏には『ジャズ批評』誌59号「ジャズ・レコード蒐集学」にて「最後の珍盤を求めて」と題した特別出張座談会を行っていただき、13ページにわたって大々的に掲載されました。同号には私も珍盤として『ヨキ・フロイント/YOGI JAZZ』と日本の『Dynamic Jazz』の2枚の紹介文を書かせていただきました。
 岡村氏はレコード会社のプロヂューサーでもあり、氏によれば日本プレスで再発盤を出すにあたって音源はその国からマザー・テープを買うが、古いアルバムとなるとジャケット〜レーベルがない、そこでコレクターから上質のオリジナル盤を借り、そこからジャケットを作るとのことでした。fontanaシリーズの完全復刻版はこうしてできあがったわけです。
 ちなみに、私からはインパルスの『コルトレーン/Crescent』MONO盤をお貸ししたことがあり、できあがりの日本語帯付きSTEREO日本盤を御礼としていただきました。これだけ有名な盤でも、年数が経つとジャケットやレーベルの入手が困難なのかと驚かされました。
 話はジャズと映画になりますが、ヨーロッパ・ジャズではロシアの衛星圏の国々、ポーランド、チェコ、ハンガリー、東ドイツ、バルト3国等がレベルも高く、興味深いです。同時進行の新しいジャズを生で自由に聴くことのできない自国の政治体制とソ連に対する反発からか、必死に自由を希求する思いの強さが伝わってきます。彼らは、この時代の西側のジャズを短波放送のノイズの混ざった音から聴いていたのではないかと想像されます。これがあったからこそ、東西冷戦の壁を崩すことができたのではないかと思われます。
 映画ではポーランドの『灰とダイヤモンド』『夜行列車』『地下水道』などがあり、『地下水道』では下水の中を延々と歩いてようやくく地上に出たと思ったら、港の遥か向こうにはソ連の軍艦が見えるというシーンが印象的でした。これこそ当時の政治体制の中ではぎりぎりの、行き場のない若者の心の内を表す映像だと思います。そんな思いがJAZZからも読み取れ、好きな盤が何枚かあります。
 一方、1980年〜1995年、中国映画が奇跡的に素晴らしい作品を多数作り出し、世界をリードした時期があります。『さらばわが愛・覇王別姫』は、私の大好きな作品です。戦前にはジャズが聴かれていた国であり、もし文化大革命がなく戦後もジャズが聴かれていたら、どんなジャズが生まれたかと想像します。
 「ジャズと自由は手をつないで行く」とはセロニアス・モンクの名言ですが、「ジャズと自由」はジャズ喫茶を経営する者にとっても大きなテーマです。あるとき、中学校〜高校時代を白山にある学校で送られたジャズ評論家・平岡正明氏が来店され、続いて同じく評論家の副島輝人、相倉久人、瀬川昌久の諸氏との出会いがあり、トーク・イベントをお願いしました。これらの根底にある共通のテーマは、まさに「ジャズと自由」でした。
 トーク・イベントでの瀬川氏のお話によると、戦前の極東ではジャズの中心は中国・上海でした。それが、アメリカとの戦争になったとたんジャズは一般人に対する禁止音楽となり、ジャズのレコードを持つことも聴くこともご法度。学生だった瀬川氏は廃棄されたSP盤を拾い集め、押入れで隠れて聴いたそうです。
 かたや日本では、戦時中、内幸町のNHKはアメリカ向けにジャズを短波で流す謀略放送を展開しており、このプロパガンダ放送でアナウンサーを務めた女性アナウンサーたちはアメリカ兵から東京ローズと呼ばれたことが知られています。ラジオのコイル部分を改造して、その短波放送を隠れて聴いた方々もおられたとは、やはり瀬川氏からお聞きしたお話です。
 陸軍戸山学校の軍楽隊にはテナー・サックス奏者宮沢昭氏もおられ、その他戦後の日本ジャズを牽引される方々も多くおられました。そんな下地があったればこそ、戦後GHQアメリカ軍経由で新しいジャズがリアルタイムで入ってきても理解でき、新人のプレイヤーが次々に生まれていったのではないかと思います。そういえば、ピアニストの守安翔太郎氏はアメリカ軍兵士向けのジャズ・レコードV-DISCを有楽町にあったジャズ喫茶「コンボ」などで貪るように聴き、それを採譜して周囲のミュージシャンにバップの解説をしたということです。
 敗戦国の立場から見るとジャズは戦勝国・アメリカで生まれ育った音楽であり、日本では戦前は聴かれていたものの、戦時中は禁圧されていた音楽です。ジャズは抑圧されて自由を求める人々から生まれ、国境を越えた自由な音楽であると思います。
 話は前後しますが、瀬川氏は大学を卒業後に就職されてアメリカへ赴任。日本人のジャズ評論家として唯一チャーリー・パーカーの演奏を生で聴く機会をもたれた方でもあります。その辺のお話は、YuoTubeで公開されている「瀬川昌久スペシャルトーク」第4回(https://www.youtube.com/watch?v=WlIeM5nXRhc)で聞くことができます。

レコード・コレクションでもオーディオでも頂を目指して

 おかげさまでジャズ・レコードのコレクションに関してはお客様に鍛えられ、私自身も勉強して、限られた空間でありながらも厳選した内容のものを集めることができました。かたや全自作のオーディオ・システムでは音響工学を基礎から勉強し、同じく限られた空間の中ながらも日本一を目指した結果が得られたと考えています。そして、映画上映会、詩の朗読会、トーク・イベント、ライブ等々の開催とあれもこれもと行ってきました。時間と私の力を考えると、充分にやり切ったと思います。44年の時をかけて、他にはない世界でも唯一の「JAZZ&somethin’else 喫茶 映画館」として誇れる内容に行き着けたと自負しております。
 最近では、外国人のお客様も多く来られるようになりました。1日あたりお客様の半数を占める日もあります。例えばリトアニアからのお客様にウラジミール・チェカシンの盤をおかけしたり、ドイツからのお客様には50〜60年代の東ドイツのジャズ・レコードをおかけしたりすると、はじめて聴いたと驚かれ、喜ばれることがままあります。JAZZ喫茶をやっていてよかったと思うのは、そんなときです。
 その一方、日本の若者からは敷居が高いと敬遠されることもあり、ジャズ・ファンを育てる役割については不充分だったという思いもあります。上から目線になりますが、だからといってハードルを下げて有名盤ばかりかけるといったことはしません。そういった現状からすると、時代と国の違いは新しい知性に対するる欲求対象の違いにつながってきたのではないかと考えられます。若い人が創造的な何か一つのことに熱中する姿は、その対象が何であっても美しいものです。
 当店を可愛がってくださった多くのジャズ評論家の方々をはじめ、先輩達の多くが鬼籍に入られました。私も間もなくそちらへ参りますので、その節はジャズ談義に花を咲かせたいものだと思う今日この頃です。