1-3 わが店、「JAZZ & somethin’else 喫茶 映画館」となる

開店から5年。地域再開発で店は消滅

 1978年に素人が白山下で「喫茶と洋酒 映画館」を始めて5年、映画の自主上映とJAZZとが相まって、それなりに知られる存在になりました。
 ところが、創業5年目の1982年、地域再開発事業と関連して高層マンションを建てる計画が生まれ、家主の意向でそれまでの木造2階建てを解体することになりました。白山下での当店は終わりの時を迎えたのです。ちなみに現在、かつての店の跡地は高層マンションのエントランスとなっています。
 店の終わりは、私にとって「選択」の時でもありました。店を完全廃業するか、それとも他の場所を探して再開店するか。個人にとっては大問題ですが、実際に方針を決めるまでの期間は1年に満たなかったと思います。内心迷っていましたが、自分で結論を出す前に、常連のお客様から「近場で続けて欲しい」との声が出ていたからです。
 たまたま白山通りの坂道にある小さなビルの2階が空いていて、もっけの幸いと仮契約を決め、手金10万円程を出しました。ところが、ちょうど私自身が映画の仕事が忙しく、そのまま1か月放置した結果、手付け金は消失となってしまいました。
 今振り返って見ますと、10万円は消えてしまいましたが、この建物の場所を解約したことは結果としてよかったと考えます。というのも、そこは建物の脇にある簡易な作りの階段を2階へ上がる構造で、これでは大型の厨房設備や冷蔵庫、オーディオ装置を2階まで上げて設置するのは大変な困難を要したでしょうし、中には持ち込めない機材もあったかもしれません。しかも、建物は公道に面していたため、店の外で電動工具を使った大工仕事などをするのは不可能です。ここで店を再開したとしたら、持ち込んだオーディオだけで、アンプを変える程度で大きな発展もなく、単なる普通のJAZZ喫茶と変わり映えのしない店となり、10年も持たずに店を閉めることになったでしょう。

捨てる神あれば、拾う神あり。新店舗へ

 この解約の件で手付け金が消えたこともあり、不動産屋が気をまわして現在の店がある場所を紹介してくれました。まさに、捨てる神あれば、拾う神あり。そこは歯科医院向けの家具を作っている会社の倉庫でした。
 駅前の坂道から階段を8歩下って入口のある私道に入ると、階段上の喧騒とは対照的に急に静かになる立地環境にSomethin’elseがあると直感しました。窓もある外観も気に入り、とにかくここへ移転して今まで以上の事をすると決めました。
 問題は新規開店に必要な資金がないことです。
 そこで一口1万円の株券のごときものを印刷して作り、常連や友人から資金を募りました。今でいうクラウドファンディングですね。後にその多く、とりわけ大口の方へは返金いたしましたが、何人かの方は記念品として今でも持っておられます。
 災い転じて福となる。禍福は糾える縄の如し。波乱の人生の始まりです。

一部はプロの力に頼りながらも、ほぼ手製による店づくり

 再開店となる建物の内部は2部屋からなる倉庫として使われおり、南北に長い構造。東側は白山の坂道の崖に面した全面壁、西側は私道に面し2つのドアがあって窓も2つあります。また、南側は幅約2メートル、北側は幅約5メートルで、全体としては窓がある台形の部屋という作りです。
 南側の台形の短辺にスピーカーを設置することとし、北西側は厨房とし最奧にガス台を置く設計にしました。トイレはその北東部です。
 工事は本職の大工さんに2部屋を仕切る壁を取り外し、アルミサッシの窓を木製の窓枠に変えてもらいました。北側の窓は隣家に接しているので防音を考え嵌め殺しとし、カウンターも大工さんに作ってもらいました。その作業を見ながら、脇で私はオーディオの棚やスピーカーの置き台を作りました。いまとなっては信じられないような手仕事は、学生時代にアルバイトで工務店に勤めたことが役に立ちました。
 壁の塗装などは、常連のお客様に手伝っていただいて仕上げました。
 現在店に入ってすぐに目に飛び込むピアノ型のテーブルは、この時に25ミリ厚のベニヤ板2枚を一気に切り、それまで使っていたテーブルの脚に25センチに切った10センチ角の柱を2本を継ぎ足して高く仕立てたものです。テーブル2つで1台のグランドピアノの蓋を想像させるデザインで、うち1つには音響ミキサーを埋め込みました。現在はそのミキサーを外して2つを1つに連結し、当時よりは少し小さくしてありますが。
 また、カウンターとピアノ型テーブルは油性の漆(カシュー)を何度も塗り重ねては耐水紙やすりを使って水研ぎするという作業を繰り返してやっとのことで漆風に仕上げました。
 ボックス席のミシン台のテーブルもこの時作ったもので、「ミシン」からミシンの機械を外し、その機械のあった部分を1台はアクリル板、1台はミシン台の蓋で穴を塞ぎ、そのままテーブル台としました。ミシンが高級品として作られていた時代の物なので、板の材質も現在では得がたい高級な素材が使われており、塗装のニスもよくできています。
 結果としてこれは大成功で、お客様にも大好評。われながら今見てもグッドアイデアだったと思います。そのかたわらに置く椅子は旧店舗のものを流用し、徐々に入れ替えていくことにしました。

常連の方や古い友人に力を借り、店づくりが進む

 オーディオが心臓部となるジャズ喫茶の店づくりで重要なのが電気工事です。幸い常連に「電験3種」の免許を持つ方がおられ、その方に指導をあおいで工事を進めました。配線は通常使われる1.6ミリFケーブルに対し2ミリの太いFケーブルを使い、自分で配線しました。ただし、漏電ブレーカー・ボックスへの結線、東電からの200Vへの結線と東京電力への新規申請は免許を持つご常連の方にお願いしました。
 厨房の水道〜排水工事は中学時代の同級生で蔵前工業高校を出て水道工事店を引き継いだ友人に依頼しました。また、その時彼からコンクリートに穴を開けたり切断したりする工作工具を借り、鉄筋コンクリートの壁に換気扇の吹き出し口を設けるための25センチ角の穴を開けたり、レコード棚を天井のコンクリートから吊り下げるオールアンカーという雌ネジを固定する穴を開けたりしました。換気扇の穴を開けるのは大変で、2〜3日かかった記憶があります。無事に換気扇を取り付けると、即日、彼の手配により、特製のレンジフードが持ち込まれました。ガス台のあるコーナーの壁面はすべてタイル貼りとしました。
 これについては失敗談があります。タイルを貼ってからその隙間にコンクリートを詰めると教えられていたのですが、私は砂を混ぜたコンクリートを埋め込んだのです。これは間違いだよとえらく怒られましたっけ。
 トイレ周りの床面も全面タイル貼りにするように言われ、それに必要なだけのタイルをもらいましたが、これは挫折しました。その代わりとして、トイレには自分で一工夫。電子リレーを使って、トイレのドアを閉めて内鍵をかけると自動で中の灯りが付く細工を施したのです。
 それにしても、さすがに工業高校で専門知識・技術を身につけた友人はレベルが上。教わることがたくさんありました。
 店づくりの仕上げとして大切な外看板は、鉄のアングル材で櫓を建て、その上に現在の半分の大きさの看板の設置を考えていましたが、この看板についても常連の方が「JAZZ SPOT Coffee & Whisky 映画館」という表示されたデザインにされ、現在の大きさで設計されました。そのため、櫓は急遽大きくしました。それと同時に、入口ドア上の三角屋根のテントもその方に作っていただきました。
 ちなみに、現在の看板の「JAZZ&somethin’else 喫茶 映画館」という表示は、あの大震災で看板が壊れ、作り変えた時からです。

新しい店は、多くの人達に支えられてできた

 そんなふうに、多数の方々のお力を借りて作られたのが、現在の店です。
 白山下から現在の白山上までの引越しは、東大剣道部の方々を中心に多数が集まり、さながら大名行列のように並んで、すべての荷を手持ちで運びました。内外装についても多くの方々の助力がありました。今では大手会社の役員などになられた方が「ここのペンキは自分が塗ったんだ」と部下に話される様子を見たりすると、なにやら懐かしく思い出されます。
 オーディオ面では、店の台形のフォルムが功を奏しているように思われます。幅約2メートルの南側の壁面に奥行き1メートルの置き台を据え付け、真ん中に最低音専用の38センチスピーカーを設置。その左右には現在も使われている低音用スピーカーという配置パターンですが、台形のために音が大きく広がり、部屋全体がスピーカーの延長という形を作り出すことに成功したと思います。
 また、南側の入口ドアを開けてすぐ左手にアンプを置き、その左隣にはレコード・プレイヤーを設置。この配置は窓を生かしてアンプとスピーカーの配線距離を少しでも短くするためですが、実際にすべてを接続して音を出してみると、やや硬めの音で、天井の低さのせいか反射音も気になりました。これらはその後徐々に調整〜改造していくことになります。
 工事の利便性についていえば、何よりもよかったのは私道に面していることで、この私道で私の電気丸ノコギリを使った工作を行いました。この電気丸ノコギリは使用頻度が高く、現在は刃が3枚目となっています。
 いずれにしても、店作りの工事はとにかく大変な作業で、店を始める前に映画の仕事と大工のバイトをしていた経験や若さがあってはじめて可能だったのでしょう。今ではとてもできません。
 喫茶店としての基本装備についていえば、コーヒーの抽出はサイフォン方式。サイフォンの置き台を自作し、そこでコーヒーを淹れる形にしました。これがいい感じで、われながら美味しいコーヒーができたと思ったものです。
 この店の移転を機に、私生活にも変化が生まれました。妻が深川にアパートを探してくれ、私たちはようやく2人で暮らし始めることとなりました。
 私は深川〜白山をフルオーダーのロードレース用の自転車で通勤することにしました。私の人生は如何に多くの人達に支えられてきたかをいまも痛切に感じます。

1−2 窪地に建つ店に灯が点るのは4時

 「JAZZ 喫茶映画館」は、東京・文京区白山通りの坂道を上がって地下鉄三田線の白山駅前、白山神社参道入口の角地にあります。白山駅へ向かう通りから路面を1メートルほど下がった窪地が、入口となる建屋です。看板は人通りの多い 通りに立っていますが、対照的に私道に面した入口は人通りもなく静かな空間で、昼間は通りかかる人も少なめ。そんな立地の店に灯が点るのは、毎日午後の4時頃です。
 私が店に来るのはこの時刻の直前。来るとまず「虎太郎、おはよう」と声をかけてから、虎太郎に朝のご飯をあげて話をします。そのあと開店の準備をし、オーディオのスイッチを入れて客を待つのが長年の習慣です。
 今の店になったのは1982年に移転して来てからのことですが、振り返ればこのルティーンをかれこれ40年繰り返してきました。

創業は45年前、1978年8月

 喫茶・映画館を創業したのは45年ほど前の1978年8月です。店の場所は現在地ではなく、100メートルほど下った白山下交差点から中仙道へ向かう坂道の3軒目で、現在はマンションのエントランスとなっています。
 創業にいたるそもそものきっかけは、78年の夏、「越路」というスナックが居抜きで安く売りに出されたことです。オーナーは印刷業を経営する人物で、女性がママさんとなって夜の店を営業していました。私の母の友人の娘さんが店を買い取り引き継ぐつもりで話が進んでいきましたが、彼女は「自分は銀座で生きていきたい」ということで、物件は宙に浮いてしまいました。当時、母は私より一回り年下の16歳の弟を5月に交通事故で亡くしたばかりで、何か生き甲斐を得るために喫茶店でも始めてみたらということから開店の計画が持ち上がりました。母も私も喫茶店で働いた経験はありませんでしたが、そこは友人の助けを借りようということになり、この物件を買い取ることにしました。
 この時期は私の青春時代の後半にあたり、自分で考えたことは何でも出来ると思っていました。78年1月に私は映画シナリオの同人誌『MAIDEN VOYAGE』を同人3人で立ち上げたばかりで、土日は私が映画関連の何かを行おうと考え、店名を「喫茶と洋酒・映画館」と変え、入口のドアをガラス張りにし、入口脇の壁面に映画のカメラの三脚に据え付けた絵を描き、外壁の前に小さなショーウインドウを作り9,5ミリの映写機を飾りました。

映画を強く打ち出した店づくり

 内装は明るくして壁面に本を並べる平台を付けテ映画関係の同人誌を並べ、トイレ側の壁面には「越路」のドアーを外し、無地の壁紙を貼ったスクリーンを取り付け、照明器具は映画のフィルム缶を使ったランプを自作しました。15ミリ厚ベニヤ板に黒板塗料を塗って映画のカチンコを大きくした形にし、メニューリストをチョークで書き、カウンターの上に飾りました。そして、16ミリ映写機を据え置きました。
 1978年8月半ばにこの形で営業を開始しました。以前から入っていた有線放送ではジャズも選べましたが、その音にはとても我慢ができず、わずか3日後に自宅のオーディオ装置全てと100枚ほどのLPレコード及びテープの音源を持ち込み。有線は解約して、LPレコードとオープンリールのテープでの演奏に切り替えました。これが現在の店の原点となります。
 また、店では映画の自主上映を行うことを決定。劇映画のフィルムレンタルは1つの会社に決め、1本を土曜の朝に借り受け月曜の朝一番で返却するというう形で、一律3万円と決め、劇映画は月に1本の形で上映しました。初回上映作品は、今村昌平監督『豚と軍艦』でした。
 劇映画の上映情報は、雑誌『キネマ旬報』『シナリオ』そして『ぴあ』に掲載しました。上映は、土曜日と日曜日に1作品を4回程繰り返し上映する方式。そして、他の土日にはドキュメンタリー映画を安価で借りて上映しました。
 映画上映時はドリンク付きで500円ほどだったと思います。この金額では全体にならしてもフィルムレンタル費にさえ届きません。それでも3〜4年は上映を続け、ある程度の実績ができたら、長年劇場では上映されなかった黒澤明の『我が青春に悔いなし』を借り上映することができました。
 その一方、ご自身で作られたり関係した自主制作映画作品の当店での上映を申し込んでくださる方も出てきました。また、私自身の映画の制作現場でも、自主上映の喫茶店を行っていることが知られるようになりました。

「映画を志す若者」毎日新聞夕刊で紹介される

 以上のような形で「喫茶・映画館」を開店して数か月を経過した時点で、毎日新聞夕刊のルポライターの池田信一氏による署名連載記事に「映画を志す若者が映画のシナリオ同人誌を出しながら映画上映を行っている喫茶店」というふれこみで大きく取り上げられました。
また、シナリオ同人誌『MAIDEN VOYAGE』は50部ほどを有名シナリオライター、映画監督、制作会社へ送付したところ、ジェームス三木氏より10枚ほどの丁寧な感想をいただくことに。その中身はというと、『MAIDEN VOYAGE』第1号の私のシナリオについて、「このままプロで通用するほど達者です。人物もイメージが浮かんでくるし、話も面白い。技術的なことを言えば1から7までは不要。……次はボーイミーツガールのような鮮烈な青春ドラマを読みたいですね」と注意点も含めて褒めてくださり、その部分のコピーを発行人からいただきました。これは大変嬉しく映画人として生きていく励みになりました。
 そして2号では亡くなった弟とその仲間たちを取り上げ、「跳べ・ロゴスから」と題して書きましたが、弟の死を距離を置いて見ることができず、内容的には観念的すぎる嫌いがありました。
 新たに同人も加わり、この2号では同人に現在の私のパートナーであるる渡辺絹子が加わりました。さらに、3号では田中じゅうこう氏が書かれ、田中氏とはその後も映画の現場で仕事をしました。
 渡辺絹子はテレビドラマのシノプシスを描く仕事の後に黒木和雄監督「泪橋」のスタッフとして映画の世界に関わりを持ちました。また、田中じゅうこう氏は2011年に「ムーラン・ルージュの青春」を、2021年には「ロボット修理人のAi」を監督作品として作り、ヒット作となりました。

16ミリの初監督作品が受賞する

 話は前後しますが、私は1990年に八王子を中心に撮った初監督作品の16ミリ記録映画『絹の道』で第28回日本産業映画・観光協会会長賞を頂くことになりました。この作品は「キネ旬ベストテン」でも登川直樹氏が7点を入れて下さるなどの評価を得、18位にランクされました。
 ところが、ここで大きな問題が。同人誌の常ではありますが、79年、第4号で内部分裂が生じ、ああだこうだのあげく廃刊が決まったのです。それでも、小さな雑誌から3人の映画人がプロとして輩出し、タイトルに名前を残したということは大きな収穫ではなかったかと思います。
 そして、開店から1年後、雑誌『別冊商店建築・秀作店の外装と看板』には当店の映画カメラを描いた入り口の写真が掲載されました。それにとどまらず、『無線と実験』誌80年2月号では高橋壮一氏の取材を受け、2ページにわたって当店が紹介されました。単なる喫茶店ではなく、映画の匂いがあり、オーディオ装置から音楽が流れる喫茶店として評価を受けたのです。

『別冊商店建築・秀作店の外装と看板』から
『無線と実験』1980年2月号
 この時期に使っていたアンプは真空管EL34を使った自作で、プリアンプは何度も作り変えました。LPプレイヤーボックスと低音スピーカーのボックス&ユニットは、ともに現在にまで受け継がれています。
 ことに、『無線と実験』での紹介記事掲載は私には嬉しいことで、この記事を見て自作のアンプを持参してご来店くださった方もおられます。
 やがて、開店から5年が経過した時点で家主が建て替えを計画。この店は、閉めなければならない状況と相成りました。

虎太郎、猫の国に旅立つ

 さて、この原稿を書いている途中のことですが、2023年3月15日PM8時、当店の看板猫であった虎太郎が猫の国に旅立ちました。
 2005年5月5日に当店の用心棒であったこの地域のボス猫「オイ」の子供として店の天井裏で産まれ、父親に子育てされ、2006年に「オイ」が6〜8歳の若さで亡くなると、その遺骨に虎太郎が祈りを捧げ、以来当店の看板猫として15年も店を守ってくれていました。
 2019年11月には体調不良で高度医療緊急救命センターER文京へ緊急入院。血栓ができており、左足が冷たくなっていて、このままでは片足切断になってしまうという診断で入院しました。この時見て下さったセンター長の入江先生に信頼を感じ、その後も月に一度検査に通いました。
 そして2020年4月25日、コロナ渦もあって虎太郎に余生を安心して送ってもらうため、自宅へ連れ帰りました。はじめての自宅は見るもの全てが珍しかったらしく、とりわけテレビの動物番組には夢中になりました。
 7月には入江先生が他の病院へ移られるいうことで、近くの動物病院を何軒も下見しました。また、入江先生から皮下点滴の方法を教えて頂きました。
 その後、投薬と皮下点滴を続けてきましたが、今年2023年2月には背中で呼吸をし、かかりつけの医者へ行きましたら今日〜明日との余命宣告。即ER文京へ行き、3泊4日の緊急入院となりました。心臓と肺に水が溜まっていて、胸水を200ccも抜き取りました。
 余命宣告を受けてから2か月弱、きっちりと自分で旅の準備を整え、前日は私を「店に行く時間だぞ」と頭を手で叩いて起こしてくれ、ご飯も水も飲み、ウンチもオシッコもトイレに行き、苦しむこともなく、まさかという驚きを残して。律儀で健気で誇り高き立派な最期でした。
 旅立ちの前には、私達が落ち込まないよう、生きていく覚悟を教えてくれました。何より偉いのは、自分で旅立ちのスケジュールを組み、その瞬間まで私達に寄り添ってくれたことです。旅立ちの前日までずっと何か話してました。
 そして、亡くなる数日前にははじめてテレビを背に座り、はじめて私たちを長い時間ジッと見つめておりました。私には17年を凝縮した時間のように感じられ、猫語が分かればと真剣に思いました。
 火葬した際に係の方が、身体のわりには随分と長い足の骨ですと仰り、通常より大きなものを用意して下さいました。綺麗な喉仏、頭蓋骨、肩甲骨と骨を拾いました。キーホルダーには指の骨を分骨しました。今は私の宝です。虎太郎はもう物体となりましたが、魂は永久に私たちの心に残りました。今は空虚さはありますが、やがて時間が解決してくれると思います。
 これからは虎太郎も一緒に旅行にも行けます。
 虎太郎は私達にとって同志でした。49日までは店のカウンターにおります。毎日お花が届き、最後の最後まで看板猫の役割を果たしてくれています。

第1章 JAZZ 喫茶映画館の 24 時間
1−1 「映画館」が「映画」になる

  2023年からさかのぼること5年前、ニュージランドのNick Dywreと名乗る方からメールが届きました。当店をドキュメンタリーとして撮影したいとの申し出でした。彼が手掛けた過去の自作品、東京・渋谷の名曲喫茶「ライオン」を撮ったドキュメンタリーがメールに添付されており、その後何度か話を重ねていくなかでNickのJAZZに対する愛情の深さを知り、それならばと快諾いたしました。
 ところが、それから直ぐにコロナの感染拡大が始まってNickが出国できない事態となり、待つこと3年。2022 年春、Nick側では資金も集まり、コロナ禍にようやくスタートしました。そして、外国人を中心とした撮影スタッフが店にやって来ました。
 日本のジャズ喫茶何軒かを取材し、「日本のJAZZ喫茶」紹介をテーマとしたドキュメンタリー 映画を製作するというのが企画の骨子で、その話し合いのなかから当店が選ばれ、40分近い作品「JAZZ EIGAKAN~THE TRUE AUDIOPHILE~」として、他の「日本のJAZZ喫茶」と平行して製作されることとなりました。冗談めかして言えば、構想5年の作品です。

総勢10人のチームがやって来た

 当店での撮影は、当初4~5日という予定でした。
 私自身、映画監督として小規模のドキュメンタリー 映画を数多く作って来ましたので、その経験から5~6人の編成を想像していました。
 ところが、いざ撮影が始まると、やって来たのは監督のNick Dywreや日本語の堪能なプロヂューサーTom Selmmonsをはじめ体の大きな外国人を中心とした10人のチーム。これには驚きました。
 そして使用される機材では、カメラは最も高精度~高画質な8Kデジタルカメラ。店内撮影では3脚の他に、最新のパイプからレールを組み立る小型の移動車を使用し、照明は小型化された最新のライト機材、録音もカメラマイクではなく録音技師が数本のマイクをセットし録音機で収録するという本格的な編成。当店がロケ地になりました日本のテレビドラマでも店内での撮影にこれだけの人たちが一同に店内へ入ることはありませんでした。
 外へ出てのロケーションでは、カメラを取り付ける雲台をカメラマンの腹部に固定し、カメラを安定させて宙に浮かせる機材を体に巻き付けて行う、最新の機材を駆使して行う本格的なものでした。
 また、Nickは当店の看板猫・虎太郎を気に入り、「ぜひこの作品に入れたい」との申し出。しかし、虎太郎はすでに家に連れ帰っており、再度店に連れてくるのは無理だと断りました。それでもNickは諦めず、撮影の開始時点で彼らは8mmのフィルム・カメラを持参し、「これで家にいる虎太郎を撮ってくれ」。結局は、私が8mmで撮影することになりました。いまは、虎太郎が映像に残ることになったことを素直に喜びたいと強く思います。
 その後、その8mmでロケーションの私も撮られ、8mmのフィルムを5本以上費やすことになりました。
 また、映画のなかで使われる、JAZZのレコードをかける店内の場面については、当店のプレイヤーでその曲の頭からお尻までかけて撮影し、当店のスピーカーから出る音をマイクで拾い録音。この撮影~録音も、撮り直しを含めると2回以上に及びました。
 ちなみに、普段のNickとの会話は彼の片言の日本語と私の勉強中の片言の英語でなに不自由なく通じていますが、きちんとした打ち合わせでは正式な通訳者が同行します。これがまさにハリウッド・スタイルというものなのかと感じた次第です。
 撮影では、編集で不足だと思われるとすぐに追加撮影が決定。レコードをかける場面は、スピーカーの前にマイクを固定し、私がレコード盤に針を下ろすところから曲が終わって針を上げるまでを選んだすべての盤について取り直しが行われ、結局は10日近くを要しました。
 2022年12月に1回目の編集が済んだ映像をを見せてもらったところ、高画質の8k画像と8mmで撮られた画面が好対照で斬新な面白さを感じました。レコードの音にもこだわって録りましたから、レコードへ針を下ろす音や音質もプレイヤーで再生されている質感が出ています。
 私を中心に過大に語られる物語は、正直に言えば嬉しくもあり恥ずかしい気持ちも致します。現在はロンドンで細かな編集~仕上げの作業が行われており、この春には完成するそうです。完成試写会は、オーディオテクニカのホールで前作『渋谷の名曲喫茶「ライオン」』と『JAZZ EIGAKAN』との2本立て行われる予定です。

隣の「谷根千」に住むご縁

 話はご縁にと繋がります。
 当店の所在地は、一応都心とはいえ繁華街ではなく、ビジネスタウンと住宅地の顔を併せ持つ白山駅前。一歩路地を入るとそこには古い町並みがいまだに残っています。白山神社へ詣でられる方も来られますが、隣接する古い町並みで人気の「谷根千」と比べ、人がわざわざ来るという町ではありません。
 その「谷根千」は、1984年に森まゆみ、仰木ひろみ、山崎範子の20代の女性3人によって創刊された地域・季刊雑誌『谷中・根津・千駄木』の地道な活動から生まれた俗称で、やがては下町らしさが残る町としてミニ観光地になりました。実は、私がいま暮らしているのは、大手ゼネコンによる根津の再開発反対の声が高まるなかでその「谷根千」に建てられたマンションであり、そこに今私たちが住んでいるのも妙なご縁だなと感じる次第です。
 「谷根千」地区はいまでも古い長屋や戸建ての家々も残っており、『谷中・根津・千駄木』は2009年の94号でその使命を終えましたが、この雑誌の残した地域文化~都市空間とコミュニティへの功績は大きく、私は現在もその関係者たちと繋がっており、活動に参加させていただいたりしています。ここでも新たなご縁が生まれ、『不忍ブックストリート』という地域マップにも当店が掲載されています。
 東京駅・駅舎が解体されずに残ったのも、そうした活動の成果の1つです。
 丸ビルの解体~新築や、最近では日比谷の三信ビルの解体は法人資産とはいえ多くの人々に愛されてきた半ば公共の建築物ですから、取り壊されたのは本当に残念なことです。
 同じ意味で、神宮外苑の銀杏並木の伐採、神田・錦町・学士会館の解体~新築にも、私は断固反対です。ローマ在住のお客様の話では、かの地では古い建物を補修しながら現在も使われており、その方の住居もまた古くに建てられたアパートメント。映画『自転車泥棒』のロケ地となった建物が現在も残っているとのことで、写真が送られて来たこともあります。
 その点でいえば、わが文京区では、1970年代から続く喫茶店はもう数えるほどになってしまったとのことです。

撮影・取材とともに自身の来た道を振り返る

 撮影・取材に協力する日々は、自分の店の開店から現在まで、そして自身の人生のこれまでと今後を一歩外側から 見直してつかむ恰好の機会になりました。
 「JAZZ 喫茶 映画館」は私の人生を通して試行錯誤しつつ考えをまとめ、具体化してきた一番大きな存在です。
 自作のオーディオ装置と店の空間が作り出す「音」は、限られた条件のなかで考えを突き詰めた結果の産物ですが、その過程は「これでよいのか」という自問自答の繰り返しです。例えば、スピーカーでは音域を可能なかぎり広げて広帯域再生をさせるため、当店のスペースに収まる最大限のサイズの46cm低音用ウーファーを専用のボックスを作って入れたり、それを駆動するアンプでは専用アンプを個別に割り当てるマルチ・アンプ方式としたり。高音スピーカーも改良を加えて、全体の音域をワイドレンジに、音質をクリアーにしました。現在はもう少し低音域で切れの鋭い音を目指していますが、建物のサイズや天井・壁面の構造からして、これが限界と思われます。はたして第一級の「音」を作り出せているかという疑問はいつまでもついて回り、いまも手直しをすることがあります。
 「JAZZ喫茶」は、ジャズを聴いていただく場であると同時に、喫茶店・サービス業でもあります。
 「喫茶店」としてわが店を見直すと、これほどに長期にわたって営業するとは考えもしなかったため、いまになってみるとさまざまな欠点が目につきます。例えば、トイレは昭和時代の和式便器のままで、その古さを払拭する仕掛けをしてはいますが、工事の時点で最新式の洋式便器+ウォッシュレットにしておけばよかったという後悔が消えません。実際には、これもまた当時の経済事情のなせる技で、当時は思いもつかなかった結果です。
 その仕掛けというのは、鍵をかけるとトイレの中とトイレ入り口の電気が同時について、トイレ使用中とわかるという仕組み。はじめて来店されたお客様がトイレに入られ、その途端にオッと声が上がるのを聞くと、してやったりの気分がします。
 店内のテーブルや椅子などの設置にしても、かつて京都や名古屋の喫茶店へ行って感じた、広くゆったりとしたゴージャスな空間設定にはほど遠いありさまです。演劇にたとえればテント劇場の様に窮屈であっても、この空間で質の高い時間を提供できるか否かが勝負だと考え、現在に至ってます。
 接客についても、悩むところ大。多くの「JAZZ喫茶」では一番威張っているのはマスターです。その点、私の接客はこれでよいのか。名マスターと呼ばれる人たちが持つ、威張りに値するだけのJAZZに対する愛情と知見が私にあるのか。後追いである私は、勉強をさせていただきながら頑張るしかありません。
 レコード・コレクションは、ジャズ・レコードコレクターの皆さんによる例会を週末に行っていることや私自身のコレクター気質もあって、TBMやtakt jazz、KINGといったレーベルのJAZZのコンプリート・コレクションを目指したり、これまた発展途上の日々。コレクターの方々からはレーベルやレコードに関する貴重な知識も頂戴しつつ充実を図っていますが、レコード収納スペースの問題もあり、所謂有名名盤よりも他のJAZZ喫茶であまり聴くことが出来ないハードな演奏内容の希少盤に偏っているのが実情です。

現在の店は限界まで努力して追求した結果

 現在、当店へ頻繁にジャズを聴きに来られるお客様は留学生など日本在住の外国人の方が多く、彼等の中には「Who’s playing the record you’re playing now」と尋ねられ、そのレコードとプレイヤーの他のレコードを見せて差し上げるとスマホで写真を撮ったりメモをしたりと探究心の深い方がおられます。しかし、日本の若者にはそこまでの方はめったにおられません。
 まだ若かった私が通っていた時代の「ジャズ喫茶」には、貪るようにジャズを聴く日本人の若者たちの姿がありました。残念ながらいまそういった若者はごく少数です。近隣に大きな大学が2校ありますが、JAZZ喫茶全盛期に比べると、男子学生の来店は少ないように思います。これは時代の流れですまされることではなく、当店が今少し努力をして開拓しなければならない使命なのではないかと考えています。
 全てを持てる力で限界まで努力して追求した結果が、現在の「JAZZ&somethin’else 喫茶 映画館」の姿です。

プロローグ――虎太郎、17 歳


 東京都文京区白山5丁目。白山通りから白山神社への参道を上がるとすぐに「JAZZ&somethin’else 喫茶 映画館」の看板が見えてきます。その脇の階段を8段降りると、そこが当店の入り口のドア。鍵を開けると同時に、私は「虎太郎!」と呼びかけます。そして店に入ると、オーディオに灯を入れ、虎太郎にご飯をあげるというのが、日々の開店のルーティーンです。
これまで、「看板猫がいる喫茶店」として数多くの猫雑誌から取材を受けました。その「看板猫」が虎太郎でした。「でした」と思わず過去形で書きましたが、ご心配なく、虎太郎は亡くなったわけではありません。2020年4月25日にコロナ禍の時短営業及び営業自粛で自宅に連れ帰ったのです。
 そもそも、わが家は「ペット不可」のマンションですので、自宅で飼うのは無理と諦めていました。それが店を住処とさせた理由です。ところが、今度ばかりは事情が事情ですし、管理人や理事長とも話し合って大目に見てもらい、まあいいだろうということになりました。そういった経緯で、今はひそかに自宅で飼っています。

 少し虎太郎の生い立ちにもふれておきましょうか。その生い立ちは当店の先代の看板猫であった雄猫の「オイ」を父に、自由猫のクロを母に、天井裏で3匹の仔を生んだ中の1匹です。お腹の中にいた時からJAZZを聞き、1か月ほど経った2005年6月頃に地上に出てきてヨチヨチ歩きを始め、そのあまりの可愛さにお客様の間でも評判になりました。その頃からJAZZが子守唄。推測で5月5日を誕生日と定めました。虎太郎だけが父親のオイに懐き、育てられ、店の中へも出入り自由。その頃はまだ自由猫。オイの指定席は入り口を入って左手の奥、カウンターのスツールで、そこに上がってオイと同じ皿からご飯を食べていました。
 2006年2月13日朝、そのオイが旅立ちました。旅立ちの数日前から、オイは店に帰っては来ませんでした。彼のテリトリーでお世話になった処を1軒ずつ回っていたのでしょう。最後には痩せ細った姿で店に帰ってきてくれましたが、ご飯をあげても食べません。そして翌朝私に撫でられながら静かに逝きました。火葬車に来ていただき、オイを見送りました。享年6~7歳でしょうか。
 ビックリしたのがオイの骨壷に別れを告げていた時に突然、虎太郎が入って来て、オイの骨壷に向かい「ニャア」と一声放ったことです。お客様でもあった若い僧侶や他の方々も、私たち夫婦も驚きで声も出ませんでした。そして、その時から虎太郎と過ごそうと決めたのです。
 虎太郎は猫社会へ加わることもなく、私たち夫婦が店にいる時が一番安心のようで、気ままに店の中を動き回ったり、ベッタリと寄り添ったりしていました。お客が少し増えると店の外へ出て、向かい側からお客の帰るのを待ち、店に戻ると日がな1日オイの指定席であったカウンターのスツールで過ごすことが 多くなりました。
 夜11時の閉店後ご飯を上げ、トイレを2つ用意して私達は家に帰り、翌日午後3時半頃に私が店に来るまで虎太郎ひとりで留守番となります。利口な仔で、椅子はもちろん、ましてやスピーカーネットでの爪研ぎなどは全くしない、まさにジャズ喫茶の看板猫として誇れる仔でもありました。
 虎太郎にはほかにも沢山のエピソードがありますが、それはまた後でのお話としましょう。家出事件、貴重なカートリッジの針飛ばし、その他その他。冷や汗ものの出来事もありましたっけ。

 当店は1978年の創業。創業の5年後に白山上の現在の場所へ移転しました。この場所を決めたのは、駅前の人通りの多い道から脇へ階段を降りると、そこは住宅街の静寂な空間になるという好立地からです。建物の構造は変形のホーン型です。その幅の狭い方をスピーカーの位置と決め、どの位置に座られても良好な音を聴けるように考えました。
 店舗設計から基礎工事はプロの方の助けを借り、私は内装工事を担当。ジャズ喫茶の生命線であるアンプ、レコード・プレイヤー、スピーカーなどのオーディオ機器はすべて自作。音のチューニングなどもほぼ一人で行って現在に至っております。話を先延ばしするようですが、これについてもまた後で詳しくご説明します。
 2023年現在、今一番頭を悩ましているのが、昨年末に当店のCDプレイヤーDENONのフラッグシップ機 DCD SI が光ピックアップの消耗により使用不可になったことです。メーカーでは修理を受け付けてくれないとのことで自分で直すこととし、
分解~組立を繰り返しますが、その度に部品1個を床に落としてたりネジを間違えたり。それらを探すこと数分、この機種に関しての組み立ては熟知するまでに至りましたが、それでもしてはいけない事をしてしまったり、再度それを直すことになったりとまるで頭の体操です。
 光ピックアップの良品を探して自力で治すしかありません。
 虎太郎の生き方が自由奔放なJAZZであり、18歳(人間でいえば80歳)を迎えようとしている現在。あとどのくらい一緒にいられるのかはただただ祈る毎日です。私自身も可能な範囲で社会に飲み込まれる事のないように自由に生きようと思っています。

 というわけで、これから綴っていきますのは、やがて半世紀も間近の店の行く末を考えるジャズ喫茶店主の人生の物語です。まだまだコロナ禍が続く2023年は、当店にとっても特別な年となりそうです。