開店から5年。地域再開発で店は消滅
1978年に素人が白山下で「喫茶と洋酒 映画館」を始めて5年、映画の自主上映とJAZZとが相まって、それなりに知られる存在になりました。
ところが、創業5年目の1982年、地域再開発事業と関連して高層マンションを建てる計画が生まれ、家主の意向でそれまでの木造2階建てを解体することになりました。白山下での当店は終わりの時を迎えたのです。ちなみに現在、かつての店の跡地は高層マンションのエントランスとなっています。
店の終わりは、私にとって「選択」の時でもありました。店を完全廃業するか、それとも他の場所を探して再開店するか。個人にとっては大問題ですが、実際に方針を決めるまでの期間は1年に満たなかったと思います。内心迷っていましたが、自分で結論を出す前に、常連のお客様から「近場で続けて欲しい」との声が出ていたからです。
たまたま白山通りの坂道にある小さなビルの2階が空いていて、もっけの幸いと仮契約を決め、手金10万円程を出しました。ところが、ちょうど私自身が映画の仕事が忙しく、そのまま1か月放置した結果、手付け金は消失となってしまいました。
今振り返って見ますと、10万円は消えてしまいましたが、この建物の場所を解約したことは結果としてよかったと考えます。というのも、そこは建物の脇にある簡易な作りの階段を2階へ上がる構造で、これでは大型の厨房設備や冷蔵庫、オーディオ装置を2階まで上げて設置するのは大変な困難を要したでしょうし、中には持ち込めない機材もあったかもしれません。しかも、建物は公道に面していたため、店の外で電動工具を使った大工仕事などをするのは不可能です。ここで店を再開したとしたら、持ち込んだオーディオだけで、アンプを変える程度で大きな発展もなく、単なる普通のJAZZ喫茶と変わり映えのしない店となり、10年も持たずに店を閉めることになったでしょう。
捨てる神あれば、拾う神あり。新店舗へ
この解約の件で手付け金が消えたこともあり、不動産屋が気をまわして現在の店がある場所を紹介してくれました。まさに、捨てる神あれば、拾う神あり。そこは歯科医院向けの家具を作っている会社の倉庫でした。
駅前の坂道から階段を8歩下って入口のある私道に入ると、階段上の喧騒とは対照的に急に静かになる立地環境にSomethin’elseがあると直感しました。窓もある外観も気に入り、とにかくここへ移転して今まで以上の事をすると決めました。
問題は新規開店に必要な資金がないことです。
そこで一口1万円の株券のごときものを印刷して作り、常連や友人から資金を募りました。今でいうクラウドファンディングですね。後にその多く、とりわけ大口の方へは返金いたしましたが、何人かの方は記念品として今でも持っておられます。
災い転じて福となる。禍福は糾える縄の如し。波乱の人生の始まりです。
一部はプロの力に頼りながらも、ほぼ手製による店づくり
再開店となる建物の内部は2部屋からなる倉庫として使われおり、南北に長い構造。東側は白山の坂道の崖に面した全面壁、西側は私道に面し2つのドアがあって窓も2つあります。また、南側は幅約2メートル、北側は幅約5メートルで、全体としては窓がある台形の部屋という作りです。
南側の台形の短辺にスピーカーを設置することとし、北西側は厨房とし最奧にガス台を置く設計にしました。トイレはその北東部です。
工事は本職の大工さんに2部屋を仕切る壁を取り外し、アルミサッシの窓を木製の窓枠に変えてもらいました。北側の窓は隣家に接しているので防音を考え嵌め殺しとし、カウンターも大工さんに作ってもらいました。その作業を見ながら、脇で私はオーディオの棚やスピーカーの置き台を作りました。いまとなっては信じられないような手仕事は、学生時代にアルバイトで工務店に勤めたことが役に立ちました。
壁の塗装などは、常連のお客様に手伝っていただいて仕上げました。
現在店に入ってすぐに目に飛び込むピアノ型のテーブルは、この時に25ミリ厚のベニヤ板2枚を一気に切り、それまで使っていたテーブルの脚に25センチに切った10センチ角の柱を2本を継ぎ足して高く仕立てたものです。テーブル2つで1台のグランドピアノの蓋を想像させるデザインで、うち1つには音響ミキサーを埋め込みました。現在はそのミキサーを外して2つを1つに連結し、当時よりは少し小さくしてありますが。
また、カウンターとピアノ型テーブルは油性の漆(カシュー)を何度も塗り重ねては耐水紙やすりを使って水研ぎするという作業を繰り返してやっとのことで漆風に仕上げました。
ボックス席のミシン台のテーブルもこの時作ったもので、「ミシン」からミシンの機械を外し、その機械のあった部分を1台はアクリル板、1台はミシン台の蓋で穴を塞ぎ、そのままテーブル台としました。ミシンが高級品として作られていた時代の物なので、板の材質も現在では得がたい高級な素材が使われており、塗装のニスもよくできています。
結果としてこれは大成功で、お客様にも大好評。われながら今見てもグッドアイデアだったと思います。そのかたわらに置く椅子は旧店舗のものを流用し、徐々に入れ替えていくことにしました。
常連の方や古い友人に力を借り、店づくりが進む
オーディオが心臓部となるジャズ喫茶の店づくりで重要なのが電気工事です。幸い常連に「電験3種」の免許を持つ方がおられ、その方に指導をあおいで工事を進めました。配線は通常使われる1.6ミリFケーブルに対し2ミリの太いFケーブルを使い、自分で配線しました。ただし、漏電ブレーカー・ボックスへの結線、東電からの200Vへの結線と東京電力への新規申請は免許を持つご常連の方にお願いしました。
厨房の水道〜排水工事は中学時代の同級生で蔵前工業高校を出て水道工事店を引き継いだ友人に依頼しました。また、その時彼からコンクリートに穴を開けたり切断したりする工作工具を借り、鉄筋コンクリートの壁に換気扇の吹き出し口を設けるための25センチ角の穴を開けたり、レコード棚を天井のコンクリートから吊り下げるオールアンカーという雌ネジを固定する穴を開けたりしました。換気扇の穴を開けるのは大変で、2〜3日かかった記憶があります。無事に換気扇を取り付けると、即日、彼の手配により、特製のレンジフードが持ち込まれました。ガス台のあるコーナーの壁面はすべてタイル貼りとしました。
これについては失敗談があります。タイルを貼ってからその隙間にコンクリートを詰めると教えられていたのですが、私は砂を混ぜたコンクリートを埋め込んだのです。これは間違いだよとえらく怒られましたっけ。
トイレ周りの床面も全面タイル貼りにするように言われ、それに必要なだけのタイルをもらいましたが、これは挫折しました。その代わりとして、トイレには自分で一工夫。電子リレーを使って、トイレのドアを閉めて内鍵をかけると自動で中の灯りが付く細工を施したのです。
それにしても、さすがに工業高校で専門知識・技術を身につけた友人はレベルが上。教わることがたくさんありました。
店づくりの仕上げとして大切な外看板は、鉄のアングル材で櫓を建て、その上に現在の半分の大きさの看板の設置を考えていましたが、この看板についても常連の方が「JAZZ SPOT Coffee & Whisky 映画館」という表示されたデザインにされ、現在の大きさで設計されました。そのため、櫓は急遽大きくしました。それと同時に、入口ドア上の三角屋根のテントもその方に作っていただきました。
ちなみに、現在の看板の「JAZZ&somethin’else 喫茶 映画館」という表示は、あの大震災で看板が壊れ、作り変えた時からです。
新しい店は、多くの人達に支えられてできた
そんなふうに、多数の方々のお力を借りて作られたのが、現在の店です。
白山下から現在の白山上までの引越しは、東大剣道部の方々を中心に多数が集まり、さながら大名行列のように並んで、すべての荷を手持ちで運びました。内外装についても多くの方々の助力がありました。今では大手会社の役員などになられた方が「ここのペンキは自分が塗ったんだ」と部下に話される様子を見たりすると、なにやら懐かしく思い出されます。
オーディオ面では、店の台形のフォルムが功を奏しているように思われます。幅約2メートルの南側の壁面に奥行き1メートルの置き台を据え付け、真ん中に最低音専用の38センチスピーカーを設置。その左右には現在も使われている低音用スピーカーという配置パターンですが、台形のために音が大きく広がり、部屋全体がスピーカーの延長という形を作り出すことに成功したと思います。
また、南側の入口ドアを開けてすぐ左手にアンプを置き、その左隣にはレコード・プレイヤーを設置。この配置は窓を生かしてアンプとスピーカーの配線距離を少しでも短くするためですが、実際にすべてを接続して音を出してみると、やや硬めの音で、天井の低さのせいか反射音も気になりました。これらはその後徐々に調整〜改造していくことになります。
工事の利便性についていえば、何よりもよかったのは私道に面していることで、この私道で私の電気丸ノコギリを使った工作を行いました。この電気丸ノコギリは使用頻度が高く、現在は刃が3枚目となっています。
いずれにしても、店作りの工事はとにかく大変な作業で、店を始める前に映画の仕事と大工のバイトをしていた経験や若さがあってはじめて可能だったのでしょう。今ではとてもできません。
喫茶店としての基本装備についていえば、コーヒーの抽出はサイフォン方式。サイフォンの置き台を自作し、そこでコーヒーを淹れる形にしました。これがいい感じで、われながら美味しいコーヒーができたと思ったものです。
この店の移転を機に、私生活にも変化が生まれました。妻が深川にアパートを探してくれ、私たちはようやく2人で暮らし始めることとなりました。
私は深川〜白山をフルオーダーのロードレース用の自転車で通勤することにしました。私の人生は如何に多くの人達に支えられてきたかをいまも痛切に感じます。