4-4 JAZZ&somethin’else喫茶・映画館、最終章へ

46年ものジャズ喫茶経営と竜舌蘭の花と

 当店で掛けているモダンジャズ〜フリージャズは「先進国の都市音楽」だと言っていいでしょう。昔、ネパールやバングラディシュへ取材で行くときにジャズのCDを持っていきましたが、一度も聴くことはありませんでした。
 ヒマラヤ山脈を眼前に見たり、地平線へまで広がる畑の緑の風景の中ではジャズは似合いません。ジャズはアメリカの綿畑で働く人から生まれた魂の音楽ですが、モダンジャズは戦時中にNYなど大都市で発展し、生まれたときとは異質の形で進歩した音楽です。
 2024年5月現在、3月生まれの私は78歳を迎え、当店「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」も今年の夏には46年目に入ります。78歳という年齢と「ジャズ喫茶」という奇妙な仕事を46年もの間続けてきた現実に驚いている昨今です。
 自分では体力〜気力に気をつけ、体を整えてから店へ出ていますが、他人から見ますと、記憶力〜集中力の衰えを感じられるかもしれません。頭に浮かんだアルバムを探し出すのに半日かかることもあり、ふと気づくと小股でふらつき、よちよちと摺り足で歩行していることに恥ずかしながら自分が驚かされます。
 店内では決してそうならないように太ももの筋トレとしてスクワットを1日100回ほどしておりますが、衰退の速度に追いつきません。
 今週(5月12日〜)自宅から店へ行く途中の本郷通りの交差点に、50年〜100年に一度しか花を咲かせないという竜舌蘭が巨大な花を2輪咲かせておりました。地球温暖化の影響か、吉兆の前触れか? この花は毎年見ることができるわけではありませんから、これを目にしたことで、自分自身の気持ちに踏ん切りがつけられたのかもしれません。

新しい流れへの関心が薄れつつある中で出合った盤たち

 話はジャズに戻りますが、感覚面ではジャズ喫茶の命である「音楽としての新しい流れ」に私の関心が薄らいできていることを自覚せざるをえません。日本人の若いプレイヤーで上手な人は多く出ていますが、それでも半世紀近く前にコルトレーン、ドルフィーをはじめて聴いたときのような驚きを感じることはできません。これは、私の感受性が落ちたということなのか、あるいはジャズ自体が発展をやめたということなのか、いずれとも言いがたいものがあります。
 そんな中で出合った2002年録音の『大友良英ニュー・ジャズ・クインテット・ライヴ』(ディスク・ユニオン)は、未来への発展が感じられる秀作だと思います。また、2001年に発売された1967年4月録音の『Olatunji Concert: The Last Live Recording』(Impulse!)を聴きますと、戦慄を感じます。これは私自身コルトレーン、ドルフィーからジャズへ入って行ったからなのでしょう。
 一方で、2020年代は新譜や新人で驚かされる機会が少なくなりました。ジャズは個々のプレイヤーの力だけではなく、これを支持して聴く観客から社会情勢全体が創られていく音楽だと思います。フリーに近いジャズであっても50年前のスタイルが一つの完成形なのかもしれませんが、それを超えられなければマンネリ化と言えるのではないでしょうか。また、このスタイルを支持し続けている私自身も保守化しているのかもしれません。
 2000年代になって、旧ソ連〜ロシア・衛星圏の地域で、西側のラジオからジャズを聴いていたであろうチェコ・スロバキア〜リトアニア等の国々から面白いアルバムが見られるようになりました。有名なプレイヤーではオンドレイ・ストゥヴェラチェク、ナイポンク、マルタ・グルジュバ等の録音は入手可能です。
 そんな東欧にあっての唯一の例外はポーランドで、早く1960年代からJAZZでも映画でもヨーロッパ全体を牽引していました。ジャズではPolish jazzとしてMuzaレーベルよりクシシュトフ・コメダ、トマシュ・スタンコ、ズビグニエフ・ナミスウォフスキなどが出され、映画ではアンジェイ・ワイダ、イェジー・カヴァレロヴィチ、アンジェイ・ムンク等がよく知られており、ソ連寄り政府のスターリニズム的検閲を巧みに交わして秀作が誕生しています。ロシアの大統領がプーチンになってからは検閲は更にひどくなり、ロシアでの新しい映画も音楽も表現が難しくなっているように思われます。

今年2024年の秋、「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」は人様の手に

 話は、私の老齢とからんでの、店の行く末のことになります。
 時が2020年に入った頃からでしょうか、店を閉めるか、それとも私自身が仕事から身を引くかを真剣に考え始めました。
 現実にはそれより数年前、私が70歳を迎えた頃、ある方から店を引き継いでもよいというお話がありました。最終的には店のカラーが強すぎ、超マニアックなレコード・コレクターの相手も難しいということでお流れになりましたが、閉店もしくは店の譲渡という問題はその頃に私の頭の片隅にこびりついたようです。
 この件に関しては、妻と話したこともあります。レコードや本、資料、オーディオ類は欲しいという方に譲り、看板は外して店を解体、更地にして家主へ返すのがよいというのが、妻の意見でした。
 振り返れば、この店は46年間、カウンターの木製の椅子をキットから作ったり、何から何まで妻と二人で手作りしてきた店で、持てる力の範囲を超えて充分にやってきたという思いがあります。しかしながら、「更地にして」となると、私自身の未練もまた大きいものがありました。
 外国人の方から当店を「残してほしい」というう声が多数あり、ジェイムズ・キャッチポール(James Catchpole)氏そしてDJをなさっている大塚広子さんと出会うことになったのは、そんな折りでした。お二人の行動は素早く、キックスターター(Kickstarter)が運営するクラウドファンディングサイトで資金集めを開始。その後の動きも急で、わずか10日程で必要額近くに達しました。
 当初、私自身はこの5月頃の引退を考えていたのですが、彼らお二人の行動の結果、今年10月末までは私が店主として活動。今年の冬の足音を聞く前に私が引退し、お二人に交替するという段取りが決まりました。そうです、私と妻は店を去り、代わってジェイムズ・キャッチポール、大塚広子のお二人がこの「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」を引き継いでくださるのです。
 店を譲り渡すにあたっての私の思いは、彼らお二人が今の状態をそのまま残して安易に引き継ぐのではなく、お二人ご自身のお考えを生かした店創りをしていただきたいという希望にあります。ジェイムズ・キャッチポール氏は日本に長期滞在しているアメリカの放送作家で、日本のジャズ喫茶300軒近くを周り、写真集『Tokyo Jazz Joints』(Philip Arneill:写真、James Catchpole:文、Kehrer Verlag Heidelberg社)にまとめるというお仕事をされた方です。写真集からは、”JAZZ KISSA”への深い愛を感じることができます。また、大塚広子さんはジャズのDJとして著名で、長いキャリアをお持ちの方です。ジャズに対する愛情が深く、私よりもはるかに若く感受性も鋭いこのお二人なら、ただ当店を引き継いでくださるだけでなく、私にはなし得なかったジャズ喫茶の新しい地平を切り拓いてくださるのではないかと、漠然ながらも期待しています。

店を譲渡するにあたって思い浮かぶこと

 店の譲渡が決まったいま、過去のある日ある時のことがいくつも脳裏に浮かんできます。
 もう1年以上の時が過ぎましたが、昨2023年3月15日には、わが店の看板猫・虎太郎が17歳と10か月で旅立ちました、人間でいえば80歳代の高齢でした。
 虎太郎は甲状腺機能亢進症と慢性腎臓病を抱えており、17歳の半ばから固形の飯が食べ辛くなりました。結果、私は鼻の穴へチューブをつないで液状のロイヤルカナンを流し込み、腎臓病に対しては背中から注射器で50ccの補水液を与えました。
 そんなある日、背中で荒々しい呼吸をしだしたので獣医へ連れて行きましたら、予想だにしていなかった今日か明日かという余命宣告。目の前が暗くなりました。
 思案してそれ以前に通っていたER文京(高度救急センター)へ連れて行ったところ、肺に水が溜まっているとのことで即入院治療。鼻のチューブからの栄養剤、背中からの補水液50ccの投与も続け、虎太郎は嫌がることもなく1か月近い治療を頑張ってくれました。
 旅立つ数日前、自宅の机の上に正座し、不動の姿勢で5分ほど私たち二人を見つめていたことが思い出されます。初めてのこととあって、ただただ驚きの数分間。心と心の会話が交わされました。
「ボクはもう旅経つけれど、これは生きている者の避けられない定めだよ、いろいろなことがあったね、」
「今までありがとう、ボクはいなくなっても君たち二人を見守っているよ、最後まで元気でね」
 オス猫に生まれたけれども猫社会にとけ込めず、人間の社会で愛猫・虎太郎とし生き、最後は私たちと3人で楽しく暮らして来た虎太郎。有難うの想いが伝わってくる数分の長いようで短い時間でした。
 その日3月15日も、買い物に出かける私たちをいつものように「行ってらっしゃい」と見送ってくれた虎太郎でしたが、私たちが帰宅すると自分のベッドの中で静かに息絶えていました。そのとき、私が自分でも驚くほど冷静でいられたのは、あのときの別れの儀式が私たちを落ち着かせてくれたのだと思います。
 店を始めて46年。いま、どのようにして店の最後を迎えるかを考えると、虎太郎の気持ちが痛いほどわかります。虎太郎を見習い、虎太郎に恥じないように毅然と幕を下ろしたいと思います。いま考えれば、虎太郎の死は店の終わりの予告でもあったのだろうと思います。

簡単には片づかないオーディオ関係

 虎太郎とは違って、生身の人間がやっている店の後始末はそう簡単ではありません。特に、店の心臓部であるオーディオ関係ではあまりにも多くの物や関係性があり、その整理が大変です。
 創りかけの音響機材等も多数あり、大きな物としては、写真の「アンプ完成予定」があります。「木枠シャーシーのパワーアンプ」で、これは20年以上前に私のアンプ作りの集大成として企画・設計し、後は内部配線をすれば完成という段階ですが、それ以上手が付けられないままに時間だけが経過しました。
 アンプの木枠を作るのは大変な作業でしたが、これがステンレスの上板の加工となるとそもそも工具すらなく、プロの旋盤業者に依頼して作ってもらいました。それでも、完成真近の状態でアンプ棚に置いておくだけでも充分飾りにはなっていたのがこのアンプです。
 店を譲渡するにあたり、まずはこの「木枠シャシーのパワーアンプ」を部品扱いとし、ヤフオクで次世代の方へ処分することにしました。未完成ではあってもそれなりに苦労して作り、形だけといえどもアンプ棚を飾って来た作品ですから、自分の手で廃棄するなど未練が大きくてとてもできません。これを手放すことが私自身の店に対する未練を断ち切る第一歩と考え、次世代の方に譲りたいと考えたのです。
 それと入れ代わるように、アメリカの映画館で使われていたIPC AM 1027型パワーアンプの完動品2台をAirplan Label 川端様より頂戴しました。IPC社が整備・調整する劇場用アンプですから、一般のアンプとは異なり、外部のアンプ等との配線はハモニカ端子板にYラグで接続します。私はこの配線方法を止め、RCA入力端子、ねじ込み形出力端子、固定式AC100Vケーブルという一般のアンプと同じ方式に変え、多少なりともオーディオ知識があればどなたでも使えるように改造しました。そしてこれを木枠シャシーアンプがあった場所へ入れ換えとして収めました。現在は300BアンプとこのIPCアンプのどちらかを選択してレコード演奏をしております。
 また、書籍の部類についても、本棚に置いてあるだけで誰も見ようとしないものは同様に整理していきたいと考えたのですが、時代の変化でしょうか、紙物、特に本の類いは買い手がつきません。

二足の草蛙から専業ジャズ喫茶へと至る道筋

 こんな小さな店です。振り返れば創業当時は映画の仕事と並走の二足の草蛙。映画の仕事がないときは、閉店後の店内でオーディオ作りをしたり、お客様と自転車で横浜まで往復したりと、店の営業は「いい加減」の状態でした。
 その後、東日本大震災の後に看板を「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」に作り替え、あくまでも「ジャズ喫茶」として営業を続けてました。都合46年間ジャズ喫茶としては成長してきたつもりですが、一体どれだけのことが達せられたか、今は自分では読めません。
 以前もふれたように、1978年の開店の直後、毎日新聞夕刊のルポライター・池田信一氏による連載記事「小集団の世界」で同人『Maiden Voyage』ともども映画の自主上映の喫茶店として紹介されました。また、1980年、『無線と実験』誌では高橋壮一氏による「Discover New Sound」の見開き2ページで紹介されました。
 こうした紹介の影響は大きく、コアな映画ファンや自作オーディオマニアの方々がよく来店されるようになりました。音楽はジャズだけをかけていましたが、「ジャズ喫茶」どころか「店」さえも意識したことはありませんでした。
 それが、1982年の白山上への移転の際、常連のお客様が「JAZZ SPOT 喫茶・映画館」という大きな看板を作って下さいました。看板に合わせて台を創るのも大変で、若かったからできたのでしょう。「ジャズ喫茶」を意識した経営状態になったのはこの時からです。
 さらに、2000年には、私自身が映画の仕事とは完全に縁を切ることを決断しました。それは、私の監督作品で賞をいただいたこともあり、それなりのレベルには達しましたが、「それなり」を超え、その上へ進むためには特異な才能と必死の努力が必要で、「二足の草蛙」では到底不可能と考えたからです。自分の才能〜欲求〜状況を客観的に分析して見ていった結果、自分自身に「映画」でのこれ以上の発展は望めず、映画を捨てて「ジャズ喫茶」を選びました。
 高校生の頃から夢に見ていた「映画監督」を捨てることに対する映画仲間からの「反対」の声を押し殺してまでして行う「ジャズ喫茶」への専念です、通り一遍のジャズ喫茶では自分自身が許せません。

2011年、「喫茶・映画館」から「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」へ

 小さいながらも46年に及ぶ店の歴史の中で一番の転機となったのは、やはり2011年の大震災です。
 震災で壊れた看板を作り替えるにあたり、私自身の発案で「JAZZ&somethin’else」という言葉を看板に入れました。「JAZZ&somethin’else」とはどういうことか? 店はジャズと映画を機軸とする文化全般の中継基地であり、その中から新しい文化創造に挑む若者を手助けできる機会、具体的には種々のイベントを開催しよう、ということです。これまでの「喫茶・映画館」から「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」という店名の変更にはそういう意味がありました。
 当店はスペースが約10坪と狭く、限界があります。「JAZZ」の部分ではピアノの常設はできず、ライブ演奏はごく親しいプレイヤーのデュオが限界で、レコード演奏が中心となります。レコード再生では、音響的にはむしろ最適の空間です。
 「JAZZ」と「オーディオ」「映画」関連の本と資料は、店内に多数置いてあります。以前も書きましたが、レコード再生に関しましてはプレイヤー〜アンプ〜スピーカーそして音響空間の設計〜素材から施行までを基礎から勉強し、プロの方に負けない一家言を持っており、完全な状態です。
 「映画館」の部分では、映画を辞めた私ですし、自分の作品は決して上映しません。劇場では見ることのできない作品で秀作を数人の会員で選んで見る会を行ってきました。
 次の「somethin’else」では、「詩の朗読会」を数年間続け、雑誌『現代詩手帖』の座談会の場所に使われたり、何人かの方は出版社より詩集を出したり詩人としてラジオ出演されたりするにいたりました。この会に参加された吟遊詩人・寺田町氏とのご縁からベースの瀬尾高志氏と親しくなり、ジャズライブへとつながります。
 瀬尾高志氏のお力添えにより、瀬尾高志+寺田町ジャズライブから瀬尾高志+吉田隆一、瀬尾高志+林栄一、瀬尾高志+纐纈雅代、デュオジャズライブと発展していきました。
 「舞踏とフリージャズ」では舞踏が1人だけや3人で演じる場合もありましたが、「音」に対して感じたまま即興で演じられます。それでも事前に何枚かのレコードを聴いていただき、曲目と順番を決めます。一度はテナーサックスを吹いているプレイヤーの背中へ自然に演じながらよじ登る場面もありました。
 特別ゲストを招いての「トークイベント」では瀬川昌久氏、相倉久人氏、足立正生氏、桜井圴氏と映像ドキュメント等を多く行いました。構成〜司会進行を行って下さった長門竜也氏は『シャープス&フラッツ物語』(小学館)を、のむみち氏は『宝田明・銀幕に愛をこめて』(筑摩書房)を出されております。
 ただひとつ、親しくさせていただいた平岡正明氏の「トークイベント」を実現できなかったのが残念で、悔いが残ります。

店を引き継ぐときが「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」の完成形

 ある部分では、日本のどこにもないジャズ喫茶にしたいという私の願いは達成できたと考えています。3年前に日本語訳版が出版されたムックですが『台湾人ジャーナリストが見たニッポンのジャズ喫茶』(周靖庭:写真、高智範:訳)にて当店のオーディオと店の作りを下記のような要旨で丁寧に説明されています――店全体がホーン状態に末広がりで壁面同士の不要な共振がなく、そのホーンの喉元全体部分に音源となるスピーカーを設置した作りが、どの場所に座っても好条件で音楽を鑑賞できる。
 46年間「ジャズ喫茶」を力の限り自身の生活を顧みず頑張ってきました。私事ですが文句の一つも言う事なく自由にやらせてくれ、生活の基盤を作ってくれた妻には感謝しております。
 2004年に中山英二(ベース)+山口友生(ギター)のデュオがはじめて行ったジャズライブでは、録音のコツが分からず、多数のマイクをセットして2系列で録音しました。そして、2022年5月13日と同年10月24日に瀬尾高志+坂田明 DUOを私の中では最後の「at EIGAKAN JAZZ LIVE」として行い、そのうち10月24日の演奏は、AIRPLANEレーベルより『SAKATA AKIRA × SEO TAKASHI/Live at HAKUSAN EIGA-KAN』としてCDアルバム化されました。演奏の最後は谷川俊太郎の「死んだ男の残したものは」の朗読バージョンでした。
 それでは、私の創りましたJAZZ喫茶「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」の残したものは……結果としては私自身の人生をかけてきた店作りで、いまでも細かな工作をしたり、不要な物を処分したりと現在進行形ですが、引退したときにはそれが「零」になります。引き継ぐのは本年10月〜11月と決まり、すでに半年を切ったいま、感慨深いものがあります。残された日々を全速力で走ります。次のことを考える余裕はありません。現在、上映会も2本の予定が入っており、会員限定の小規模上映会を行います。
 この引き継ぐ時が「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」の完成形です。
 おそらくは虎太郎がじっと見守ってくれていると思います。誰にも恥じることのないように凛として幕を下ろす覚悟です。

4-3 開店45年目、さてどう乗り切るか

 今年2025年、「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」は、夏には45年目に入ります。これほど永く店を続けてこられるとは、開店時には考えもしなかったことです。
 そんな新しい年の初めにこの連載原稿が遅れてしまったのは、店をこの後どうするかを真剣に考え、また、自分自身の年齢を重ねると、残された時間は少ないと感じられたからです。
 現時点での店の存在を見つめ直すと、「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」という名称に繰り込まれている、3つの大きな柱があります。それらは、人々との出会いから大きな影響をいただき、方向性として定まって来たものと考えています。

店を成り立たせている3つの柱

 1つ目は「喫茶・映画館」です。
 この名前で店を始めたとき、店内のほぼ中央に16ミリの映写機を固定し、その前面には天井から下げるロール型のスクリーンを据え付け、常時映画上映の可能な環境を作りました。また、すべての壁面に私の好きな映画のポスターを貼り、書架を作って映画関連の図書を備え、図書館のように読むことができるようにしました。偏った範囲ですが、最新の映画情報も得られるよう、映画館から送られてきたチラシを配布しました。
 内装のレイアウトも自分の所有物を持ち寄って行いましたので、古い電電公社マーク入りの黒電話や昭和時代のNCRのレジスター、ねじまき式の柱時計数種が並ぶという光景でした。若い方に言わせると、昭和レトロということになるのかも知れません。
 そのようなことがあってか、当店をロケ地に選んで撮影された映画やテレビドラマもあります。例えば、映画では井筒和幸監督の『パッチギ! LOVE&PEACE』。テレビドラマでは松山ケンイチ、黒木メイサ主演の『オリンピックの身代金』。最近の作品では、館ひろし、神田正輝のダブル主演による『クロスロード』全6話の舞台になりました。この撮影のとき、館さんがスタッフに「この店は社長も来ているので粗相のないように」と言われたことは、私にとって良き思い出です。
 そんなこんながあって、「喫茶・映画館」という名前の持つ意味が明確になり、映画情報誌『名画座かんぺ』発行人ののむみちさんと知り合って『ミニシアターかんぺ』の石田・三木ご両人をご紹介いただき、結果、両誌を毎月配布するようになって10年以上になります。
 新聞配達をしながら東洋大へ進学し、卒業を間近に控えた男子学生から、当店のトイレの中、天井と床を除くすべての壁面に写真を貼りつめた「写真展」を10日ほどやりたいとの申し出があったのも、「喫茶・映画館」の時期です。トイレに限定という発想が面白くてお受けし、開催しました。ちなみに、写真はすべて「豚」を写したもので、今村昌平監督の映画『豚と軍艦』を想起させる写真展となりました。

ピーグラー写真展
 また、これに触発されてでしょうか、続いてアメリカ人ラッセル・スコット・ピーグラーRussell Scott Peagler氏の写真展を3度にわたって行いました。
 1回目は2007年5月の「ラッセル・スコット・ピーグラー写真展」で、夜遅くなってから写真展示の作業をラッセルたちと行っていたところ、母が入院している病院から「今亡くなった」との電話。親の死に目に立ち会えなかったのは残念ですが、その瞬間も仕事をしていたことは親孝行の1つだと自分を納得させています。話はそれますが、母には映画の仕事で私が留守中のときも店を維持してもらいました。いまだに母を大事に思っておられるお客様もおられます。嬉しいことです。
 2回目はチベットを撮影した写真展でしたが、金髪碧眼の青年がチベットの僻村へ入り込むとあって、中国の公安警察が彼をピッタリとマーク。そのため、撮影ができなくなったと聞きました。チベットからの出国時、なんとか生き延びた写真たちだとのことでした。
 そして3回目はその翌年、「4545」というタイトルで開催。東京の街の風俗をアメリカ人の目線から捉えた作品群が並びました。

JAZZレコード・コレクションの充実とオーディオのレベルアップ

 2つ目の柱は「JAZZ喫茶」です。

「映画館グループ」の集まり
 当店は、はじめから「JAZZ喫茶」を看板にしていた訳ではありません。手持ちのレコードの9割以上がJAZZで、それらJAZZレコードをかけていたというだけのことでした。前にも書きましたが、そこに1984年、神保町の「コンボ」に集まっておられたJAZZレコード収集家のグループが同店の閉店とともに次の店を探しておられ、グループのリーダーである田中氏と棚本氏が当店を視察に来られました。そして、当店が次の拠点として選ばれ、隔週土曜日の集まりが生まれました。それが「映画館グループ」の成り立ちです。
 さらには、そのご縁で新たな紹介があり、「映画館グループ」の集まりのない週の土曜日には、大和明氏、岡村融氏、岩味潔氏らHOT Clubのグループがこれまた隔週のサイクルで来られるようになりました。
 とりわけ、現役バリバリの収集家が集まる「映画館グループ」が当店を定期の試聴場としてくださったことは店に大きな変化をもたらしました。自分で言うのもおこがましいですが、「ただ単にJAZZをかけていた店」が、レコード収集家の間で一定の評価をいただけるJAZZ喫茶へとランクアップされたのです。
 それとともに私自身のレコードの買い方も変化し、小島録音、アケタディスク、自主制作盤、ヨーロッパ・ジャズ等々へと拡大していきました。ヨーロッパ・ジャズの貴重な新譜は、必ず発売前に予約を入れて入手します。それらは、発売が話題に上ると、たちまちのうちに完売となるからです。また、中古盤には新品以上の高値がつき、それも滅多に出ません。こうして当店のコレクションは充実していきました。
 これに応えるべくオーディオの質も日々高めており、限られた狭いスペースの中ではありますが、限界まで追求したと自負しています。
 高音用の市販のツイーターユニットでは、名機といわれるものであっても高域の力強いエネルギー感に不満を感じ、自作することになりました。素材としてのTAD2002ユニットは振動板が130ミリグラムの超軽量高硬度ベリリウムで、高域は22000Hzまでフラットにのびています。そこで、7N高純度銅線を振動板端子に直付けし、奥行き4cmの木製ホーンを付けました。これにより、高音がきれいに入っているアート・アンサンブル・オブ・シカゴの『ザ・スピリチュアル(The Spiritual)』(Freedom/Black Lion)なども、打楽器を叩き壊わす寸前の音が実にリアルに聴こえます。

微力ながらも社会貢献をめざしてsomethin’else

 3つ目の柱は「somethin’else」です。
 somethin’elseですから、JAZZにとらわれることなく発想は自由に広がり、いくつもの新しい試みがそこから生まれてきました。
 白山下時代からお付き合いのある荒川氏、吉川氏らの自主講座・反核パシフィックセンター東京で展開されている「反核太平洋、公害を逃がすな!」運動を母体に発行されている『月報パシフィカ』『月報公害を逃すな』という情報誌があります。これらを店内で閲覧可能としました。
 2011年の東日本大震災は福島原発事故を招き、人間の愚かさに刃を突きつけました。日本政府、そしてこの原発を作った人間でさえも自力では制御できない未曾有の大事故は、いまだに終息の兆しさえ見えません。多くの人が「故郷に帰れない」という現実があります。
 この東北震災に対する復興支援活動では、当店の地域では向ヶ丘の寺院が活動拠点の場所となり、宗派を超えて人が集まり、炊き出しを作りそれを運び、それぞれが自分のできることをやりながら協力し合い、そうして人の輪が広がりできあがっていきました。
 その1つ、プロジェクトFUKUSHIMA主催の東北を応援しようのスローガンのもと盆踊りの開催や野外コンサートが大々的に企画され、ギタリスト大友良英氏や音楽家、詩人が協賛しました。「未来は私たちの手に」を合言葉に盆踊りの櫓を飾るのぼり旗への協賛金を今でも毎年送っております。盆踊りが終わると、のぼり旗が送られてきます。
 8月13〜25日には「チベットからフクシマへ・野田雅也」写真展とトークを開催しました。野田氏は10年以上にわたりチベットから中国の核実験場、ヒマラヤを超えて亡命するチベット難民を撮り続け、福島原発事故では規制線の張られる前の12日から撮影をされています。当日展示された写真は「MOTHERLAND Tibet to Fukushima」と題された冊子にまとめられ、当店で閲覧可能です。
 ここで知り合いになった市原みちえ氏は死刑囚・故永山則夫の最後の面会人で、彼の全遺品を管理されて「いのちのギャラリー」を運営されておられる方です。2013年11月9日に相倉久人ジャズトークの特別企画として映画監督・足立正生氏とともに市原みちえ氏をお呼びし、足立監督の『略称・連続射殺魔』上映とトーク・イベントを司会進行・長門竜也、協力・JAZZ MORITATEYERのもと開催しました。
 また、当店からは若干の距離がありますが、谷中・根津・千駄木を中心にした芸工展という街中が美術館という展示会にもお誘いを受け、何度か参加しました。このイベントは雑誌『谷中・根津・千駄木』の編集者、梶原理子氏のご尽力によるものです。それに付随して「不忍ブックストリート」という地域だけの地図にも当店を掲載していただいています。こちらに関しては、池の端にある「古書ほうろう」さんのお力添えをいただきました。
 2015年には講師・桜井均氏、協力・映像ドキュメント.comにて「戦後日本と憲法を考える」とハードルの高いテーマでのトーク・イベントも行いました。当店制作の小冊子も、当店書架にて閲覧可能です。
 「映像ドキュメント.com」桜井氏は、2016年に年齢が「満18歳以上」に引き下げられたのを記念して『18歳のレッスン』全11本を制作。そのうち7本が荒川氏、吉川氏らの自主講座メンバーの全面協力をあおぎ、当店にて撮影されました。ネットに上げられておりますのでご覧いただけます。
 また、当店ご常連のT氏が反原労として毎月経産省前で配布されていらっしゃるチラシは第447号を迎え、まもなく500号となります。

 イベント開催は多くの人の協力のたまものです。これらの人々との出会いがあり、お互いに影響しあい、そして「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」は当店独自の店の形を作って来たのだと考えます。
 つらつらと思うのは、店は店主の考えに共鳴されたお客様によって作られていくということです。様々のご縁が良い方向に向かい当店が44年も続けられたのは、良いお客様に恵まれたのだと感謝しかありません。

4-2 趣味で始め、主観で営んできた44年

創業45年目を控え、劇場用パワーアンプを導入

 2023年も12月となり、残りはわずか。この「猫と歩み続けたジャズ喫茶―「JAZZ 喫茶映画館」の44年―」連載も回を重ねて10回目、第4章の2節にいたりました。来年夏には、店は創業45年目を迎えます。早いようで短い44年。これだけの歳月続けてこられたのも、お客様のおかげだという思いを新たにする今日この頃です。
 白山上に店を移し、「ジャズと映画、文化の中継基地」を目指して店名を「JAZZ&somethin’ else・映画館」としてからもすでに39年。何かを発信したいとウズウズしている者たちの溜まり場として開店時に目指したクオリティーを現在も維持できていると自負していますが、さて、どこまでやれるか。自分自身の引き際を考えなければならない年齢となり、体力、気力、集中力の衰えを感じないわけにはいきません。
 このような日々だからこそ、最後の力を振り絞って、米国IPC社製の劇場用パワーアンプAM-1027型2台の導入を決意し、今日12月20日に到着しました。早速、当店のアンプに合わせたスピーカーケーブルの出力端子を作り、ハンダ付けで仮留めして繋いで音出しをしました。
 しかし、1台は静かでクリアーな音でしたが、もう1台は電源ノイズが酷くて使えません。このアンプの重量に押されてでしょうか、シャシーの左端の電解コンデンサーが付け根から折れていました。
 もっとも、このコンデンサーの交換だけで済むようでしたら、修理は簡単です。これは1940年代後半から50年代にかけてアメリカの映画館で多く使われていたパワーアンプで、最もポピラーな真空管6L6を2本終段に使ったプッシュプル型です。これを当店の仕様とBTS規格に合わせて少々改造して使えるようにしていきます。
 高級な封切り映画館では、日本でもアンプからスピーカーまでWestern Electric社製かRCA社製のサウンド・システムでまとめられていました。一方、その次のクラスの映画館では、このIPC-1072型パワーアンプを使われていた例が多いです。

「映画館グループ」の力を借りて集めた貴重盤

 店名の「JAZZ&somethin’else」中一番肝心なJAZZの部分では他店にはない貴重盤も多少はあり、それら貴重盤のかかる店として知られるようにはなりましたが、これについては自力で達成したというよりもレコード・コレクターの集まり「映画館グループ」の力が大。彼らが持ち込んできたレコードをかけたり、彼らの話から得た知識をもとにレコードを購入した結果です。
 1984年、それまで神田神保町の「コンボ」に集まっていた彼らは、同店の閉店を機に次の店を探しており、グループのリーダーである田中氏と棚本氏が当店を視察に来られたのでした。そのとき、私はジョン・コルトレーンの『LIVE AT MOUNT MERU』を含むスウェーデン盤初回プレス全5枚セットをお見せし、かけました。その結果、コレクター目線のお眼鏡にかなったようです。
 以来、当店をグループの拠点として奇数土曜日の夕方から集まり、その後マスコミでの紹介のおり「映画館グループ」と名付けられ、40年近く1回も休むことなく続けられています。彼らから譲っていただき、今では入手困難となった貴重盤も多数あります。
 最近では、2023年12月第1週にはグループのS氏がその日に50万円で購入したというKenny Dorham『quiet kenny』(NEW JAZZ 8225)を持ってこられました。当店にある最もオリジナル盤に近い日本盤と比べたところ、ジャケット写真がクリアーで、盤も新品同様。以前の持ち主は保存用として持っていて、一度も針を通していなかったようです。
 こういったジャズ・レコードのコレクションへの情熱には、いつも感服させられます。そして、そのレコードに針を落として聴けるというのもまた店主冥利につきます。

一番力を入れてきたのは、基礎から勉強したオーディオか

 「JAZZ&somethin’else 喫茶 映画館」は私の趣味で始め、主観で営んできた店です。
 結果として一番力を入れてきたのは、基礎から勉強したオーディオかもしれません。以前も書きましたが、プレイヤーからパワーアンプ、そしてスピーカーでは低音専用ボックス、木製・中音用ホーン、高音用ツイーターにいたるまで自作です。参考にしたものはトーキー映画のサウンド・システムを発明したWestern Electric製で、その劇場用アンプは憧れの1つですが、店の開店時にはすでに高価になっており、私には買えませんでした。しかし、友人が購入した「難あり品」を修理〜復元してさしあげたことが何度かあり、その作業を通じてWE社のアンプ作りの思想性が理解でき、勉強にもなりました。集めたWE社のアンプ関連資料は、コピーですが、厚さ20センチ以上になりました。
 当店で使用しているレコード・プレイヤーは、NHK仕様で力の強い、デンオンRP-52です。局ではターンテーブルを常時回転させていて、上板の薄いターンテーブルの上にレコード盤を置き、レコード針を曲の頭にセットして、クイックスタートさせて使いますが、当店ではクイックスタートの必要はありません。そこで、入手と同時に薄いクイックスタート・ターンテーブルを外し、8ミリ厚の両面研磨ガラス板をセンターに7ミリの穴を開けた340ミリ径の円盤に加工してもらい、ターンテーブルの外周に対して1ミリの誤差もなくぴたりとはめ込んでいます。
 製造から半世紀以上経過して、近年アイドラーゴムのノイズが気になりだしました。そこでモーターノイズを完全に切り離せるマイクロ製糸ドライブプレイヤーを導入し、交互に使用していました。そんなある日、当店のお客様で東大の研究所等からの依頼でどんな小さな部品でも作っておられる白石治様とお話をしたところ、アイドラーを作れると知り、オリジナルの軸受けへは交換用アイドラーのゴムを作り、さらにセラミックを素材とした軸受けとアイドラーのゴムを作っていただきました。
 できあがりを見ると、最新の素材で作ってありますから、プレイヤー製造時以上の性能を確保。アイドラーのノイズは皆無となり、糸ドライブプレイヤーを使う必要もなくなりました。

相倉久人氏から瀬川昌久氏へと続いたジャズのトークイヴェント

スコット写真展
 一方、店名の&somethin’ else(何でもある、特別な、の意)の部分では映画の上映会に始まり、詩の朗読会、舞踏とジャズのセッション、写真展、トークイヴェントなど考えうるかぎりのさまざまな催しを行ってきました。ジャズよりもこれらのイヴェントで他店とは違うジャズ喫茶としての足跡を残してきたのではないかと思えます。
 2011年の東日本大震災と福島原発の事故の衝撃は大きく、以降当店で開催されるイヴェントも原発の存在が無視できません。ご常連のお客様の一人冨田修氏は原発の危険性を訴えたビラを40年以上にわたり経産省と国会前で配布されています。また、同じくご常連であり、社会派運動の集団「映像ドキュメント.com」の創設者である桜井氏、吉川氏、荒川氏は、2011年、18歳選挙権取得に関連した『18歳のためのレッスン』(約60分)全11本のうち7本を当店で撮影されました。そのうち澤地久枝氏の会では、冒頭に虎太郎が出演しています。これは、当店ホームページのClip Boardでご覧いただけます。2015年10月には、同じメンバーでトークイヴェント「戦後日本と憲法を考える」を開催しました。
 ジャズに関わるトークイヴェントとしては、ご常連のJAZZ Moritateya・福原賢治氏との相談で相倉久人氏のトークを企画し、長門竜也氏の構成協力のもと、「相倉久人炸裂ジャズトーク〜ジャズは世界にどう突き刺さったか!」として起ち上げました。その第1回は2013年4月、瀧口譲司氏の司会進行により開催。25名の方々が集まり、満席となりました。
 同じ年の11月には、特別企画として映画監督の足立正生氏、死刑囚・永山則夫の全ての遺品の管理者である市原みちえ氏をゲストにお招きして足立正生監督による映画作品『略称・連続射殺魔』の上映とトークイヴェントを開催。映画製作の趣旨、相倉氏が音楽監督をつとめられた映画音楽録音時の裏話などをお聞きしました。
 さらに、2014年12月には第9回としてゲストに伊藤銀次氏をお呼びして「〜70年代、相倉久人は何故ジャズから去ったか〜」をテーマに開催。そして、「炸裂ジャズトーク!」は2015年1月31日の第10回まで続けましたが、相倉久人氏の体調不良でご入院のためここで一時中断。残念ながら同年7月8日、相倉久人氏は83歳で逝去されました。悲しいことでした。
 2015年10月1日に学士会館で行われたお別れ会「相倉久人氏を送る会」で配布された追悼の冊子「さらなる<出発>〜相倉久人」の見開きには当店トークイヴェント時にスピーカー前で撮られた写真が使われています。
 ジャズに関わるトークイヴェントとしてはもうひとつ、2014年6月から始まった瀬川昌久氏による「瀬川昌久白熱ジャズトーク」があります。相倉氏によるトークイヴェントとはひと味異なり、その内容はジャズ史講座へと発展していきます。
 2016年12月10日の第4回「李香蘭とその時代〜次世代に語り継ぐ・戦争をさせないために〜」は瀬川氏からの提案で開催にいたったもので、のむみち氏が司会進行、映像ドキュメントが撮影〜配信を行って下さいました。そしてこれが瀬川氏のトークイヴェントの総集編となりました。
 お話は李香蘭主演の幻の映画『私の鶯』(1943年、満州映画協会・東宝共同制作)で始まり、戦時中のジャズ音楽禁止への反骨から押し入れで聴いたジャズ、学徒出陣と戦後の復員、ジャズイヴェントの開催、戦中に共通する反知性のお話、そして今の時代にまで通底する危険を熱心に訴えられました。
 知性のある学生が戦争反対を口にできず、特攻へと志願させられて自ら死を選んだのは、いまも大きな疑問です。社会の雰囲気が自身の命よりも大きかったのでしょうか。戦争の惨さはいまの時代へと繋がるように思います。
 瀬川氏は2021年12月29日、97歳で逝去されました。打ち合わせのためにお宅へお邪魔しますと、いつも貴重な資料を次の世代へ繋げたいとおっしゃって見せてくださったことが忘れられません。瀬川氏、相倉氏とともに年月を重ねられたのは、当店にとっても大きな財産です。その志に恥じないようにしたいと思っております。

言葉の「重さ」と「詩」の朗読会

 話は少し脇にそれますが、私なりに戦前から戦中の歴史を整理してみます。
 1932年に五・一五事件、33年に京大滝川事件、35年に天皇機関説問題、36年に二・二六事件が起き、38年には国家総動員法が発議され、39年のヨーロッパではナチスのポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発。40年10月には国内に大政翼賛会ができ、思想・言論の弾圧は自由主義から常識的な学説にまで及んでいき、そして41年12月には真珠湾攻撃で日本も世界大戦に突き進んでいく……。
 石橋湛山氏は1930年代から軍事力による膨張主義を批判し、平和な貿易立国を目指す「小日本主義」を『東洋経済新報』の論説で展開提唱していました。また、斎藤隆夫氏は1940年2月の衆議院本会議にて「反軍演説」を行い、米内光政首相を追及。その結果、3月7日の本会議で除名処分が議決されて衆院を辞任しましたが、1942年の総選挙では翼賛選挙の中にもかかわらず兵庫県5区から出馬して最高点で再当選を果たして衆議院議員に復帰しました。
 しかし、これら「小日本主義〜反軍国主義」が国民的運動になることはなく、新聞〜ラジオでも自らの取材による報道がされることはなく、「玉砕」「特攻」「転戦」という言葉を使って事実を曖昧にし、正しく伝えていませんでした。瀬川昌久氏は、今の時代には戦中へ向かっていたかつてのときと同じ空気を感じると何度もおっしゃっておられました。
 言葉には「重さ」があります。2000年になってから、私は「言葉の重さ」を意識するようになり、「詩」の朗読会を偶数月の土曜に店で始めました。参加していただいた方のうち何人かは、詩集を出版されました。
 この朗読会に参加されていた村田活彦氏は現在、毎週土曜日24時から「渋谷のラジオ」にて「誰も整理してこなかったポエトリー・リーディングの歴史」を放送されています。私は、1920年代〜40年代のアメリカでジャズをバックにしたポエトリー・リーディングが行われていたことをこの放送から、レコード再生から知りました。そこで演奏されているジャズは、モダン・ジャズの先駆けです。
 一方、戦後のモダン・ジャズの時代にあっては詩とジャズのレコーディングの数は少ないものの、日本人では白石かずこ氏がサム・リヴァースの演奏をバックにコルトレーンを追悼した「KAZUKO SHIRAISI」、沖至・吉増剛造両氏による「幻想ノート〜古代天文台」が知られています。
 吉増剛造氏は2004年3月の当店での朗読会にお越しくださり、太田省吾氏、豊島重之氏と「新しい劇言語にむけて」の対談を行い、さらに自作の詩を朗読してくださいました。これについては「現代詩手帖」04年4月号に掲載されています。氏の朗読の時は、お客様全員が物音1つ立てずに静寂の中で聞き入っていました。
 それから18年後の2022年に当店にて開催された坂田明+瀬尾高志ライブでは、坂田明氏が1stステージでは平家物語の一節を、2ndステージでは谷川俊太郎の詩を歌うようにリーディングされました。このライブは録音されて『SAKATA AKIRA X SEO TAKASHI Live at HAKUSAN EIGA-KAN』としてCD化。当店でも販売しています(¥2200)。

“JAZZKISSA”が共通言語になった

 映画関連では映画が縁で知り合って10年以上になるのむみちさんとは2018年に瀬川昌久スペシャルトークとして「宝田明『銀幕に愛をこめて』〜ぼくはゴジラの同期生〜構成・のむみち、刊行記念」を行いました。のむみちさんは「名画座かんぺ」と題して旧邦画に特化した上映スケジュール表を毎月お一人で制作され、各映画館などで配布されている方で、昨年その10周年を記念したささやかなお祝いの会を当店で行いました。ゲストにはウクレレ奏者のノラオンナ様をお迎えし、また小西康陽氏からも祝電が届くという楽しい会でした。
 その姉妹紙として妹世代の女性2人組が他の劇場を紹介される「ミニシアターかんぺ」を発行されており、この両紙を合わせると東京での殆どの上映が分かります。当店で映画上映があるる場合も書いていただいています。
 このように振り返ると、すべてのイヴェントが人との関わりの中から生まれていて、私一人の発案ではとてもできないことがあらためて実感されます。イヴェントにはそれこそジャムセッションのような楽しさがあります。
 ジャズ喫茶としては外国からのお客様も増えて、今では外国でも“JAZZKISSA”が共通言語になりました。驚きと同時に、昔に比べて日本人の若者のお客様が減ったことをつくづく感じます。現在のような閉塞した時代にしてしまったのには、私たち世代の責任も大きいでしょう。それでも、どのような時代にあっても、新しい文化を模索し、創っていくのは若者です。今ひとつ頑張って欲しいと願うのは、私が老境に達しているからでしょうか。

 「JAZZ&somethin’else・映画館」の店内は、イヴェントスペースとしては不十分なつくりです。その都度、テーブルや椅子の配置を変えて空間を作って対応してきました。それでも今日まで続けて来れたのは支えて下さった皆様のおかげです。感謝申し上げます。
 まだまだこれからだと思ってもおります。今年もあと数日。本年もお世話になりました。
 来年もまだまだ連載は続きますのでよろしくお願い申し上げます。

第4章 JAZZ 喫茶映画館の航跡 4-1 わずか100枚でスタートしたレコード・コレクションは今

レコード総数100枚ほどでスタートした「喫茶・映画館」

 ジャズ喫茶にとっては、どんなにオーディオ・システムが良くても、かけるレコードがなければ営業は成り立ちません。オーディオがジャズ喫茶の心臓なら、レコードは血液です。また、レコードに対する知識も重要な部分です。ジャズ喫茶で一番肝心なのは、ジャズに対する愛だと言い切っても過言ではないでしょう。
 グレードの高いオーディオ・システムであった方がベターですが、それがなくともジャズ愛があれば自然と店主の個性を反映してレコード・コレクションも充実し、非科学的表現ですがオーディオさえもジャズに染まっていきます。当店も、ジャズ喫茶の命であるレコード・コレクションの内容をある方向へ向けて充実させてきたと確信しています。
 1978年に白山下で「喫茶・映画館」を開店した際のコレクションは、コルトレーンの20〜30枚のレコードを中心とする総数100枚ほど。接客業には素人の私が、映画の仕事を続けながらジャズ好きのお客様に引っ張られてレコードを買い足してやって来たというのが実情です。たまたま持っているレコードの8割がジャズであっただけで、開店当初からジャズ喫茶を意識していたわけではありません。
 しかし、82年に白山上で新店舗を「JAZZ喫茶・映画館」として作ることになり、今度はそれまでの経験を加味しながら、ジャズ喫茶のプロとしての意識を持って店舗の工事をゼロからスタートしました。今にして思えば、赤ん坊がハイハイしてつかまり歩き出したようなものでした。
 わずか100枚でスタートした白山下の店でしたが、それでも開店以後はハード・バップから初期フリー・ジャズ、日本人アーティストのアルバム、ロシア周辺の国々などのアルバムを意識して集めるようになりました。
 レコード収集を始めるきっかけになった、『スイングジャーナル』誌の臨時増刊号『幻の名盤読本』という本があります。70年代前半、学生時代によく通っていた神田神保町のジャズ喫茶「響」のマスター・大木俊之助さんから紹介を受けて知った1冊ですが、実はそのときこの『幻の名盤読本』の編集の手伝いをしてみないかというお話がありました。そこでスイングジャーナル社を訪ねて当時の児山紀芳編集長にお会いし、数百枚が書かれたレコード・リストを見せられました。
 ところが、そのリストのうちで私が知っているレコードは60年代後半以降のものに限られ、それ以外はタイトルを見てもアルバムが目に浮かばない、実体のわからないアルバムが殆どでした。また、マイナーなレーベルについても多くを知りませんでした。このとき、私は「知らない」ということを教わったのでした。
 アルバイトとして参加することは可能でしたが、足手まといになるのは避けたいという気持ちがあり、さらに当時の私は映画人としての自立を考えておりましたから、結局は参加を断念。大木さんもその旨を了解してくださいました。
 その「響」には、マスターご自身が作られたレコード・リストが常備されていました。リストは楽器・プレイヤー別に分けられており、すべてのアルバムのジャケットのカラー写真付き。ジャズ初心者にも分かりやすく、私の知る限り今もこれを超えるものはありません。
 手持ちのレコードが少ない私は、その代わりとして書架に関連本を揃えて並べることにしました。

週に一度のレコード店まわりで始まったレコード収集

 78年に「喫茶・映画館」を開店してからは自作の自転車(ロードレーサー)で店と家を往復する毎日でしたが、週に一度は電車で銀座の「ハンター」、御茶ノ水や新宿の「ディスクユニオン」、さらには高田馬場へとレコード店をめぐり、通称餌箱をあさってから店に入るようにしました。
 そんな折り、銀座のハンターでTBM(Three Blind Mice)レーベルの中期以降のアルバムの新品未使用が大量に出されているのに出会いました。このレーベルは新人を積極的に紹介しており、録音〜音作りもしっかりしていましたので、ハンターにあった全タイトルを購入。同レーベルのコンプリート・コレクションをめざしました。
 TBMは1970年6月に藤井武氏が設立された日本のジャズ専門レーベルで、録音の殆どが麻布十番のアオイスタジオで神成芳彦氏によって行われています。このスタジオは市川崑TVシリーズで半年ほど毎日通いましたから良く知っていますが、フリーの映画人にとっては最高峰のスタジオではあっても、それはあくまでも映画の録音スタジオとしての話。フルコンサートのグランドピアノなどはなかったと記憶しています。ここでジャズそれも大編成のビックバンドも録音されていたというのは、まさに驚きです。
 レコード番号はTBM-1から始まりTBM-78まで。その次に1000番、3000番、5000番シリーズがあります。TBM-1から10番までの初回プレスは重量盤で、レーベルのアルバム・タイトルとプレイヤー名に大きなフォントが使われていました。それが、11番からは普通の盤になり、レーベルも小さなフォントで統一されます。1から78番までのアルバムの再発盤は2500番が頭に付き、2501番などとなります。このレーベルの95%ほどが集まった時期、TBM社長の藤井武氏が当店を表敬訪問して下さったのは嬉しい出来事でした。
 そうして、次にはtakt -JAZZの7番、渡辺貞夫とチャーリー・マリアーノによる『イベリアン・ワルツ』に出合います。このアルバムに魅了された私は、takt Jazzシリーズのコンプリート収集を思い立ちました。タクト・レーベルはオーディオ・メーカーのタクト電気が始めた日本ジャズの専門レーベルで、ディレクターは谷口茂巳氏、小野正一郎氏。大森盛太郎氏の監修で1作目の渡辺貞夫『Jazz & Bossa』は1967年に発売されました。
 ジャケットの作りは凝っており、エンボス紙の薄紙のダブル・ジャケットの見開きにライナー・ノーツ4ページが貼り付けてあり、一方レコード盤側はエンボス紙で引き出しカバーを作り、引き出しは厚手の白いボール紙5枚重ねにLP盤の穴を開け、さらにボール紙の蓋が付けてあります。アルバムによっては通常のダブル・ジャケットもあり、終盤のJAZZ-13から17番まではシングル・ジャケットです。
 続いて3000番シリーズが数枚出されてのちレーベルはコロムビアへと移籍し、日野皓正『フィーリン・グッド』からは番号もXMS-10001から始まり、『イベリアン・ワルツ』はXMS-10012として再発売されています。

日本ジャズからヨーロッパ・ジャズへと広がるコレクション

 こうした収集の流れから、日本のジャズに興味が広がり、「Offbeat」「Marshmallow」レーベルのすべてと「KOJIMA録音」のジャズ全アルバムを集めました。「KINGジャズシリーズ」ではアルバムの存在さえ知らないものもありました。宮沢昭氏リーダーのアルバムは枚数は多くはありませんが、見つけるのも難しかったなか、コンプリートを完成させました。
 そして、この収集の過程でとんでもない大物に出合いました。「3-2 ジャズと出会った頃から」の項でもふれた、1961年ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルでのジョン・コルトレーン・クインテットのライブ録音盤を作るためのラッカー盤マザー・ディスクです。この録音は今日まで未発売で、当店にある盤が世界で唯一のものです。録音はレコード化を意識した録音というよりも記録として1本のマイクでスタッフが録音したようです。コルトレーンとピアノの録音は良いのですが、2本のベースとドラムスが不鮮明に感じられます。ラッカー盤をプレイヤーでかけると音溝が削られてしまい、マザーとしては使えなくなりますので、店ではCDに焼いたものをかけています。
 一方、ジャケットの凝った作りと演奏内容の高さでは、ドイツ・CBSで1963年〜64年に出された「1」〜「4」までのアルバムがあります。このアルバムは三つ折のジャケットの見開き部分にライナー・ノーツとLP盤を収めた白ジャケットが貼り付けられています。
 「1」はアルバート・マンゲルスドルフ『ONE-tension』、「2」はヨキ・フロイント『YOGI JAZZ』、「3」はアルバート・マンゲルスドルフ『Now Jazz Ramwong in ASIA』、「4」はヴォルフガング・ダウナー『DREAM TALK』で、それぞれのジャケットのアルバム・タイトルに整数の1から4がそれぞれ異なった位置に入っています。
 「1」の『ONE-tension』だけは国内盤がSONYより出されていますが、他は出されていません。「3」の『Now Jazz Ramwong in ASIA』はオリジナル盤が入手できました。「2」と「4」は再発LPを入手しましたが、ジャケットが全く違うシングル・ジャケットです。この三つ折の見開きジャケットがどうしても欲しくて、下記に記すコレクター達に声をかけてお借りし、三つ折の見開きジャケットを自作しました。DREAM TALKのEの活字が左右反対になっているのは、オリジナルに対する私なりの配慮からです。
 私のレコード収集ではアメリカのジャズでは三大レーベルをはじめ好きなところを買い、レーベルとしてはCANDID、TRANSITIONを意識して買い集めました。BLUE NOTEレーベルのオリジナル盤はやたらと買える価格ではありませんので、好きなアルバムの入手可能な盤を買い、徐々に買い直してオリジナル盤へと近づけていきました。
 60年代までのアメリカ・プレスの盤ではSTEREOとMONOが同時発売の場合はMONO盤の方が音にジャズ的力強さがありました。この連載で併走してして下さっている浜野智氏のご紹介で『ヴァン・ゲルダー決定盤101』という本の執筆陣に参加させていただき、あらためてジャズ・レコード盤の奥深さを知りました。
 ヴァン・ゲルダー氏が録音〜プレスまで管理していたBLUE NOTE盤は氏の個性が表れ、迫力のある音です。しかし他所でそれをプレス〜カッティングされた盤では音が全く違う場合もあります。日本で初めてプレスされた東芝のLNG番号とアメリカプレスでもUnited Artists盤は音が良くないと感じました。
 他所での再発盤であってもアメリカLIBERTY盤、日本ではKING盤は良いです。 2000年代に行方均氏が関わり東芝EMIで最後にBLUE NOTEをLPで出された盤は音がヴァン・ゲルダー録音に近くて音質も良く、盤質やジャケットも丁寧に作られています。KINGでレコード制作をされていた方から伺った話ですが、KINGでは送られて来たマザーに対しオリジナル盤LPを比較試聴加味しながら、マスターを作るとのことでした。BLUE NOTEプレスの2nd盤でもNY番地レーベルはヴァン・ゲルダー氏が管理したオリジナル盤と殆ど変わりません。
 1枚のアルバムを東芝LNG盤→KING盤→LIBERTY盤→NYレーベル盤→オリジナル盤と買い替えていったアルバムも何枚かはあります。そして、エリック・ドルフィー『OUT TO LUNCH』に限っては、MONOのオリジナル1st・ヴァン・ゲルダー・プレス盤(A面深溝入りレーベル)の迫力が凄まじく、STEREO盤〜MONO-セカンド・プレス盤ではその迫力を聴くことができず、結果として4〜5枚は買い直して持っております。

コレクターの方々から受けた大きな刺激

 90年代に神保町のジャズ喫茶「コンボ」が閉店となり、ある日、そこを拠点にしていたレコード・コレクター諸氏の集まりが当店を視察に来られました。ジャズ喫茶として気に入られたようで、その後、奇数土曜日に当店で集まりが開かれるようになります。レコード店では田中軍団と呼ばれていましたが、現在では10インチ盤収集の棚本氏や『OUR JAZZ』創刊メンバーの持田氏をはじめ「映画館グループ」と名付けられ、30年以上にわたり今でも続いています。
 彼らのLPレコードに対する拘りは凄まじく、takt JAZZ12番の『TOSHIKO MARIANO QUARTET』はこのtakt盤をオリジナル盤とうたって発売されていましたが、takt盤は実は再発盤で、初回発売は大阪の日本レコードでごく少数プレスされたものでした。その現物の帯付き完品をグループのメンバーから見せていただいたときは驚きました。俗に言う「幻の名盤」や珍盤の部類でも声を掛ければメンバーの誰かはそのオリジナル盤を持っています。
 彼らから教わるジャズレコードに関する情報は大きく、そのおかげで新譜限定発売のとき、今では貴重盤となっているものも新譜の安い価格で買えました。また、譲っていただいた貴重盤も多数あり、彼らの存在なくして当店のレコード・コレクションはここまでは充実できませんでした。深く感謝する次第です。
 この集まりの吸引力によって日本で一番古くからあるジャズファンクラブ「HOT CLUB」の方々も来られるようになり、そうした当店での集まりを大和明氏が「JAZZ HOT SOCIETY」と命名されました。超貴重なRockwell-ME503『Shotaro Moriyasu Memorial』の新品未開封の完璧なジャケットは、そのとき、Rockwellレーベル代表の岩見潔氏から名刺代わりに直接頂いたものです。ただし、内に入っていた盤は、守安翔太郎ではなく鈴木章治の新品未使用品でした。そのことをなかなか言えずにいましたが、意を決してお尋ねしましたら、守安の盤は岩見氏のところにも余りがないとのことで、代わりに鈴木章治を入れたとのことでした。そんな次第があって、土曜日の「映画館グループ」のコレクターにお願いして守安翔太郎の音源をCDに焼いていただき、それをジャケットに入れています。鈴木章治の盤は、それとは反対にME502『SHOJI SUZUKI QUINTET』のジャケットを表裏カラーコピーで焼いていただきました。2枚とも今では貴重品です。
 ビリー・ホリデイ研究家の大和明氏からは、ビリー・ホリデイのSP盤から起こしたアルバムをSONYから出す予定で作ったところ、ノイズがカットされてつまらない平板な音になってしまったとのことで、元のSP盤から録音し直した全24曲のCDを特別に頂戴しました。また、氏にアルバート・アイラーのファースト・レコーディングが「Something differnt」のタイトルで2枚組としてDIWより発売されたとお知らせし、そのA面をおかけしましたら、早々に買いに行かれ2枚を通して聴かれ良かったと感想を仰られ、ある意味で大和明氏=ビリー・ホリデイという固定観念がありましたから驚きました。良いジャズは誰が聞いても良いものであると認識を改めました。

ジャズと自由は手をつないで行く

 HOT CLUBの岡村融氏には『ジャズ批評』誌59号「ジャズ・レコード蒐集学」にて「最後の珍盤を求めて」と題した特別出張座談会を行っていただき、13ページにわたって大々的に掲載されました。同号には私も珍盤として『ヨキ・フロイント/YOGI JAZZ』と日本の『Dynamic Jazz』の2枚の紹介文を書かせていただきました。
 岡村氏はレコード会社のプロヂューサーでもあり、氏によれば日本プレスで再発盤を出すにあたって音源はその国からマザー・テープを買うが、古いアルバムとなるとジャケット〜レーベルがない、そこでコレクターから上質のオリジナル盤を借り、そこからジャケットを作るとのことでした。fontanaシリーズの完全復刻版はこうしてできあがったわけです。
 ちなみに、私からはインパルスの『コルトレーン/Crescent』MONO盤をお貸ししたことがあり、できあがりの日本語帯付きSTEREO日本盤を御礼としていただきました。これだけ有名な盤でも、年数が経つとジャケットやレーベルの入手が困難なのかと驚かされました。
 話はジャズと映画になりますが、ヨーロッパ・ジャズではロシアの衛星圏の国々、ポーランド、チェコ、ハンガリー、東ドイツ、バルト3国等がレベルも高く、興味深いです。同時進行の新しいジャズを生で自由に聴くことのできない自国の政治体制とソ連に対する反発からか、必死に自由を希求する思いの強さが伝わってきます。彼らは、この時代の西側のジャズを短波放送のノイズの混ざった音から聴いていたのではないかと想像されます。これがあったからこそ、東西冷戦の壁を崩すことができたのではないかと思われます。
 映画ではポーランドの『灰とダイヤモンド』『夜行列車』『地下水道』などがあり、『地下水道』では下水の中を延々と歩いてようやくく地上に出たと思ったら、港の遥か向こうにはソ連の軍艦が見えるというシーンが印象的でした。これこそ当時の政治体制の中ではぎりぎりの、行き場のない若者の心の内を表す映像だと思います。そんな思いがJAZZからも読み取れ、好きな盤が何枚かあります。
 一方、1980年〜1995年、中国映画が奇跡的に素晴らしい作品を多数作り出し、世界をリードした時期があります。『さらばわが愛・覇王別姫』は、私の大好きな作品です。戦前にはジャズが聴かれていた国であり、もし文化大革命がなく戦後もジャズが聴かれていたら、どんなジャズが生まれたかと想像します。
 「ジャズと自由は手をつないで行く」とはセロニアス・モンクの名言ですが、「ジャズと自由」はジャズ喫茶を経営する者にとっても大きなテーマです。あるとき、中学校〜高校時代を白山にある学校で送られたジャズ評論家・平岡正明氏が来店され、続いて同じく評論家の副島輝人、相倉久人、瀬川昌久の諸氏との出会いがあり、トーク・イベントをお願いしました。これらの根底にある共通のテーマは、まさに「ジャズと自由」でした。
 トーク・イベントでの瀬川氏のお話によると、戦前の極東ではジャズの中心は中国・上海でした。それが、アメリカとの戦争になったとたんジャズは一般人に対する禁止音楽となり、ジャズのレコードを持つことも聴くこともご法度。学生だった瀬川氏は廃棄されたSP盤を拾い集め、押入れで隠れて聴いたそうです。
 かたや日本では、戦時中、内幸町のNHKはアメリカ向けにジャズを短波で流す謀略放送を展開しており、このプロパガンダ放送でアナウンサーを務めた女性アナウンサーたちはアメリカ兵から東京ローズと呼ばれたことが知られています。ラジオのコイル部分を改造して、その短波放送を隠れて聴いた方々もおられたとは、やはり瀬川氏からお聞きしたお話です。
 陸軍戸山学校の軍楽隊にはテナー・サックス奏者宮沢昭氏もおられ、その他戦後の日本ジャズを牽引される方々も多くおられました。そんな下地があったればこそ、戦後GHQアメリカ軍経由で新しいジャズがリアルタイムで入ってきても理解でき、新人のプレイヤーが次々に生まれていったのではないかと思います。そういえば、ピアニストの守安翔太郎氏はアメリカ軍兵士向けのジャズ・レコードV-DISCを有楽町にあったジャズ喫茶「コンボ」などで貪るように聴き、それを採譜して周囲のミュージシャンにバップの解説をしたということです。
 敗戦国の立場から見るとジャズは戦勝国・アメリカで生まれ育った音楽であり、日本では戦前は聴かれていたものの、戦時中は禁圧されていた音楽です。ジャズは抑圧されて自由を求める人々から生まれ、国境を越えた自由な音楽であると思います。
 話は前後しますが、瀬川氏は大学を卒業後に就職されてアメリカへ赴任。日本人のジャズ評論家として唯一チャーリー・パーカーの演奏を生で聴く機会をもたれた方でもあります。その辺のお話は、YuoTubeで公開されている「瀬川昌久スペシャルトーク」第4回(https://www.youtube.com/watch?v=WlIeM5nXRhc)で聞くことができます。

レコード・コレクションでもオーディオでも頂を目指して

 おかげさまでジャズ・レコードのコレクションに関してはお客様に鍛えられ、私自身も勉強して、限られた空間でありながらも厳選した内容のものを集めることができました。かたや全自作のオーディオ・システムでは音響工学を基礎から勉強し、同じく限られた空間の中ながらも日本一を目指した結果が得られたと考えています。そして、映画上映会、詩の朗読会、トーク・イベント、ライブ等々の開催とあれもこれもと行ってきました。時間と私の力を考えると、充分にやり切ったと思います。44年の時をかけて、他にはない世界でも唯一の「JAZZ&somethin’else 喫茶 映画館」として誇れる内容に行き着けたと自負しております。
 最近では、外国人のお客様も多く来られるようになりました。1日あたりお客様の半数を占める日もあります。例えばリトアニアからのお客様にウラジミール・チェカシンの盤をおかけしたり、ドイツからのお客様には50〜60年代の東ドイツのジャズ・レコードをおかけしたりすると、はじめて聴いたと驚かれ、喜ばれることがままあります。JAZZ喫茶をやっていてよかったと思うのは、そんなときです。
 その一方、日本の若者からは敷居が高いと敬遠されることもあり、ジャズ・ファンを育てる役割については不充分だったという思いもあります。上から目線になりますが、だからといってハードルを下げて有名盤ばかりかけるといったことはしません。そういった現状からすると、時代と国の違いは新しい知性に対するる欲求対象の違いにつながってきたのではないかと考えられます。若い人が創造的な何か一つのことに熱中する姿は、その対象が何であっても美しいものです。
 当店を可愛がってくださった多くのジャズ評論家の方々をはじめ、先輩達の多くが鬼籍に入られました。私も間もなくそちらへ参りますので、その節はジャズ談義に花を咲かせたいものだと思う今日この頃です。

3-4 「ジャズと映画を発信する文化の中継基地」を目指して

 前回に続き、映画との関わりを少し綴っていきます。

突然飛びこんできた映画『刺青』封切り公開の話

 2020年のある日、梵天太郎事務所代表の加藤弘氏から突然の連絡がありました。聞けば、40年間封印されたままになっている梵天太郎唯一の監督映画作品『刺青』のノーカット版(86分)を4Kリマスターとして封切り公開することになったとのよし。それで撮影当時のことを知りたく、関係者を探してようやく私にたどり着いたとのことでした。そして、映画上映にあたり、パンフレットの解説を書いてくれというのです。
 これはまさに寝耳に水の話で、まずは作品が残っていたことに驚かされました。偶然にも、私はこの映画の企画当初から最後のヤマハホールでの完成試写会まで関わった、唯一人のスタッフでした。
 それからしばらく経って、事務所の代表は今度は4代目梵天太郎氏を連れて来られ、このとき、初代梵天太郎が『混血児リカ』などを描いた漫画家としても有名な方であり、2008年、79歳で亡くなられていたことを知らされました。
 梵天太郎監督『刺青』という作品は映画製作の問題点をいろいろと現場で学ばせてもらったという意味で、苦難を乗り越えた思いのある作品です。そもそもは1975年秋、記録映画の監督である前田憲二氏と梵天太郎氏が刺青の記録映画を作るということで起ち上げた企画でしたが、紆余曲折あって梵天太郎氏の青春期を織り込んだ劇映画+記録映画に変更。劇映画をよく知る助監督として市川崑テレビシリーズ『追跡』の監督補であった岡野敬氏が付くことになり、さらにその彼に呼ばれて私がセカンド助監督として途中から参加したのでした。
 そんな経緯があって、私がはじめてスタッフルームの梵天太郎事務所へ行ったときのことです。監督の前田憲二氏はそこにいませんでしたが、プロデューサーは昔私と行き違いのあった(「3-3 JAZZ&somethin elseの意味と映画との関わり」参照)千田由治氏で、プロデューサー補には甥子さん、主演・刺青師の恋人役に娘さん(新人)、その娘役に姪御さん(新人)と千田氏の血縁で固められており、カメラマンと前田氏の助監督は記録映画の方々です。多少なりとも劇映画の現場を知っているのは、企画者の梵天太郎氏と助監督の岡野敬氏、そして私だけでした。

てんやわんやの撮影スタート

 そもそもの発案が記録映画だったからか、刺青の現場を撮るという以外、製作はシノプシス(構成案)もスケジュール表もなく、具体的に誰を被写体に撮って撮影するのかも決まっていない状況下でのスタート。こちらは状況の変化を受け身で待っているだけで、劇映画のスタッフとしては堪え難い状況でした。
 その間、事務所では、スタッフを尻目に、梵天太郎氏が淡々とお客様に刺青を彫っています。そこで目にした刺青について少し触れておくと、体へ入れる黒(正確には紺に発色)は墨をよく擦り、それを顔料として針の束に染み込ませて彫り込んでいきます。彫り終わったら熱い風呂に入ると発色がよくなるとお聞きしました。
 そんな状況のさなか、ダラケた空気を変えるため、岡野氏は「梵天太郎が唐十郎の背中に刺青を彫ることになった」という話をこしらえ、少数のスタッフを集合させました。これはスタッフから緊張感を取り戻すための「嘘」です。この様な「嘘」は現場の世界では稀にありました。それこそ、嘘も方便ということです。
 そうして結局は、映画は梵天太郎氏の青年期の思い出話をもとに、画家を志していた青年が刺青という表現手段を発見するという設定とし、ドキュメンタリーから劇映画へと手法を変えました。
 そして75年12月、佐渡〜越後湯沢への5日のロケが決定。私が前田憲二監督とお会いしたのはこのときがはじてでしたが、小道具〜衣装の準備をして、ともかくロケーションを完了。撮影済みラッシュプリントを見ましたが、次の具体的方針は何も決まっておらず、未だシナリオもなしという状態でした。映画の企画はこの時点で暗礁に乗り上げ、梵天氏の胸中では前田監督案は消えました。

         『刺青』絵コンテ
 75年12月末〜76年1月、前田監督とプロデューサーをはじめとするスタッフには秘密裏に、梵天太郎氏との話し合いが正月を挟んで行われ、岡野敬氏がシナリオを書くことに決定。赤坂の東急ホテルに3日ほど缶詰になり、私もお手伝いしてシナリオを完成させ、梵天太郎氏へ渡しました。私事になりますが、私はこの映画の話の半年ほど前に弟をバイク事故で亡くしており、シナリオのラストシーンは、その追悼の意味をこめ、主人公がカワサキの750ccバイクで空中に舞いあがり、日輪の中に溶け込んで行く場面としました。
 梵天太郎氏はこの本を叩き台として藤城洋子氏に書き直しを依頼。監督は梵天太郎氏自身として製作は続行されますが、では現場での監督は誰なのかというと決まっていませんでした。私は岡野敬監督案を出しましたが、監督未経験ということもあり、梵天太郎監督に加え、プロとして経験豊富で予算の範囲内で確実に仕事のできる方を探すこととなりました。結果、テレビで活躍中の唐順棋氏が監督と決まりました。

刺青を前面に出した作品として映画は完成へ

 撮影にあたっては、『追跡』で知り合った構木久子氏に記録をお願いしました。私が撮影現場を指揮するチーフ助監督として経験不足だったことや、監督が二転三転したりスタッフ間での理解不足もあって、シナリオを消化するのが精一杯という状態でした。
 映画としての中身についていえば、池部良扮する盲目の刺青師という、現実にはあり得ない人物設定が映画に重みを与えました。また、梵天太郎監督の急な発案により、シナリオにはなかった、カルーセル麻紀氏のヴァギナから出てくる蛇の刺青を入れるという場面が追加されました。実際に墨を入れた針で線彫りを施していき、それを撮るわけですが、当然少々の出血もあります。そののち、線で仕切られた部分には色を彫って入れていきますが、これを芝居ではなく本当に彫っている様子を撮影するというのはまさに破天荒で、私に記録映画の面白さを教えてくれました。
 最後の撮影は、倶利迦羅紋紋の方々に集まっていただき全身を撮影する、スタジオ撮影となりました。このとき、紋紋の方々は高級車でこられ、スタッフ一同に豪華な弁当が配られたことが思い出されます。そして、あらためてライトを当ててみますと、刺青は美しい、凄いの一語に尽きるものでした。
 劇中の彫り師彫聖は伝統的な手彫りにこだわっており、その弟子の彫り師は刺青の機械彫りから総合芸術への発展を目指している設定です。ところが、現実の世界では、機械彫りを始めたのは梵天太郎自身です。つまり劇中の盲目の刺青師、伝統的な手彫りにこだわる刺青師、機械彫りから総合芸術への発展を目指す刺青師、この3人はすべて梵天太郎そのものなのです。
 ただし、製作に関わった自分が言うのも変ですが、作品としては、シナリオに機械的に沿って編集されたからでしょうか、編集ラッシュを見たところでは作品として焦点が定まっていない、話の筋が実際に刺青を彫る画に負けてしまっていて全体としてまとまっていないと感じました。そこでより高い完成度を目指して、私がアオイスタジオですれ違って知っていた篠田正浩監督の編集をされていた山路早智子氏にお願いし、再編集をお願いすることになりました。構成もシナリオから離れました。当初編集を担当された梶原氏はそれでも仕事から降りることなく、編集助手としてずっと付いていて下さいました。立派に責任を果たされたと思います。
 76年3月、山路氏のおかげで何とか作品として仕上がり、2日間のダビングへこぎ着けたことは望外の喜びでした。ダビング完成後は、編集済みプリントをネガ編集に預け、16mmシネテープ(音マザー)はサウンドトラック〜ネガフィルムに焼き付ける光学録音のため、リーレコ・スタジオへ持ち込みます。そして、画と音の素材が揃って現像所で1本の映画となります。映画関係者だけが体験できることですが、スタッフは現像所の完全な闇の中で零号試写を見ます(映画の劇場は完全な闇ではありません)。
 私は1976年3月20日にヤマハホールで行われた完成試写会までお付き合いしましたが、梵天太郎氏も満足されていました。作品としてはインパクトもあり及第点だと思いますが、撮影現場の混乱から、父娘の近親相姦というタブーを伏線に設定したにもかかわらず、タブーに対する挑戦という視点は薄く、また、ドラマ仕立てにしたために実際に刺青を彫っていることのリアルさも薄まってしまいました。船頭多くして何とやらの例えどおり、誰の作品なのかが明快でない、個性の薄さが不満でした。
 その後、私は自分自身のことで忙しくなってこの作品との関わりから離れ、劇場公開されたのか否かも縮小版ビデオが作られていたことも知りませんでした。
 やがて2022年、4Kリマスター版『刺青』が劇場公開されるという知らせが加藤弘氏からあり、数十年ぶりに劇場「ラピュタ阿佐ヶ谷」で完成版を見ました。40数年の時間の経過からか、かつての不満は払拭されました。若い旧邦画ファンの方からも及第点をつけられ、長年の鬱屈した思いが晴れていく気分を味わいました。
 刺青師梵天太郎の本領が発揮され、今では考えられない刺青を前面に出した作品としてのカルト的評価もあったと思います。

「ジャズと映画を発信する文化の中継基地」になる

 『刺青』が終わって、私はシナリオを基礎から勉強する必要を痛感しました。1977年に入ってシナリオセンター(シナリオ実習講座)の夜間講座を受講するようになり、そこで知り合った者3人と翌78年1月、シナリオ同人誌『MAIDEN VOYAGE』を起ち上げました。それは、同じ年の8月、白山下に映画の自主上映を主にした「喫茶・映画館」のオープンに繋がっていきます。
 「喫茶・映画館」開店の経緯は「1−2 窪地に建つ店に灯が点るのは4時」に書いたとおりですが、ここでは開店後の顛末を少し振り返ってみます。
 私自身は店の場所が白山であることには全く無関心でしたが、母は亡くなった次男が通った高校のあった土地だということが嬉しかったようです。私も母も喫茶店は客として行っておりますが、経営するのは全くの素人です。経営については店を開いてから勉強することとし、母との共同経営を考えました。この母と共同でという考えは、他人の目にはマザコン的に見えたかもしれません。
 ただし、店の方向性だけは、「文化の中継基地にする」と決めていました。私は助監督から監督になることを何よりも大きな目標と考えていて、シナリオ同人誌を発展させて週末に店で映画の自主上映でもできれば充分。平日は母に任せればよいぐらいに安易に考えていたのです。
 以前書いたこととかぶりますが、店を作るための改装工事は大工には頼まず、シナリオ同人の渡辺絹子(後に妻となる)に手伝ってもらい、私と二人で作って行けばいいと考えていました。映画のカチンコを巨大化してメニューとしたり、映画にはずいぶんこだわりました。
 店の壁面には書店のように映画に関連する同人誌を中心に集めて雑誌を展示、同時に自主上映をはじめとする独立プロダクションの映画のポスターを貼り、映画運動の小さな拠点となればと思っていました。シナリオ同人誌の他の仲間も応援してくれました。
 1週間試験営業をした結果、有線放送の音と内容が不満でこれをを解約し、オーディオ装置を自宅から持ち込んで、ジャズのLPレコードをかけることにしました。また、店での映画上映のための16ミリ映写機は『刺青』の初代監督である前田氏から購入したと思います。これでひとまず「ジャズと映画を発信する文化の中継基地」の形はできあがりました。
 その一方、私が店にいるときはこれでよいのですが、私のいないときのことを考えると、母やバイトではLPレコードのかけ替えは不安です。そこで、まだCDのない時代でしたから、レコードをカセットテープにダビングし、これをかけてもらえばよしと考えました。カセットデッキも、大奮発して高級機ナカミチ#1000を入れました。
 以後半年ほどは映画の仕事はお断りし、喫茶店でのバイト経験のある友人にカウンターの中に入ってもらってコーヒーと接客を勉強し、ウェイターに弟の友人だった子をお願いし、店づくりに専念しました。
 そして、これまた「1−2 窪地に建つ店に灯が点るのは4時」でふれたように、開店当初からシナリオ同人誌を始めた若者が喫茶店を開くということが注目され、さまざまな雑誌・新聞から取材依頼がありました。また、店の外装も私が書いた撮影機のイラストが目を惹き、雑誌『商店建築』の「秀作店の外装と看板」にも掲載されたことは嬉しくかつ驚きでした。一方、母は次男を思い出させるようなお客様との触れ合いを楽しんでいました。
 かたや私はただひたすら映画の発展、文化の広報に寄与したいと考えていましたが、それぞれの立ち位置を明確にしなかったため、母との乖離は当初思っていたよりも大きいと気づくことになります。この状態は上手く回転しているときはよいのですが、「喫茶店での映画上映」などに関する新聞の取材などが入ると、取材対象である店の柱が何なのか、店の名義人の母、私、そして応援してくださるスポンサーの方との間で行き違いが生じ、誰が船頭なのかわからなくなる混乱も生じてきます。話は前後しますが『刺青』のように監督が誰なのかわからなくて方針が出せず、場当たり的に迷走するといった状態です。一歩間違えば店の空気を変え、お客様との関係にも亀裂ができてしまう寸前です。
 結局、私はお客様との距離を取り、私の基本方針を柱に据え、実務面では母には手伝いとしてお願いすることにしました。しかし、皮肉なことに現実は私が撮影などでしばらく店を留守にしているときの方が店は活気があり、売り上げもありました。やがて1979年、店と私事に時間を取られた結果、『MAIDEN VOYAGE』4号は出すことができず、分裂〜廃刊となりました。
 映画上映によって常連のお客様はできていきましたが、そのお客様が日常の営業でのお客様となるわけではありません。反対に日常の営業は、弟を彷彿させる世代のお客様を中心に支えられていましたが、当店の推す多数の同人誌や映画、そして流れているジャズなどには彼らの関心は薄いように感じられました。
 この風景があっての店なのだと割り切るまでには時間がかかりました。

移転から18年後の2000年、映画製作とは縁を切る

 1982年、白山下の店が開店から5年になったところで、家主が建て替えを決め、そのため私の店は立ち退かなければならなくなりました。これは開店時から承知していたことで、保証金等はありません。このとき閉店を考えて、常連のお客様へお話ししたら、近くの場所で続けてほしいとの声があり、今でいうクラウドファンデイング形式でお金が集まり、現在の白山上へ移転することになったのは、以前書いたとおりです。
 白山上で新規開店するにあたっての指針はジャズと映画を柱に文化全般をうたった空間作りにあり、真空管アンプと自作のスピーカーシステムを前面に出し、テーブルの設定も家庭的雰囲気になりがちな要素は極力抑えるようにしました。オーディオの世界ではCDの時代が始まっており、私が映画の撮影等で不在のときは、母かアルバイトがカセットではなくCDをかける方式になりました。
 私自身は助監督から監督になったばかりで、映画の仕事に時間をとられます。そこで、月1回だった映画上映会は年に数回とし、その代わり、映画関係者をお呼びしてトークと組み合わせるなど、内容を濃くする工夫をしました。詩の朗読会も年に数回行い、これを10年余続けました。テーマを設定したトーク・イベントや舞踏・ジャズ のライブも始めました。
 平常はこの空間でのジャズ喫茶営業です。母にお願いしたときと私がいるときのどちらでも基本は変わりませんが、空気感はおそらく違っていたでしょう。そして、母にはずいぶん助けてもらいましたが、1990年、年齢のことも考え、70歳を迎えるのを機に引退してもらうこととし、店の名義を私に変えました。
 そののち、母が亡くなった際には、お客様からのお花が絶えませんでした。母を愛し懐かしんで、今でも母の話をしてくださるお客様がおられます。
 そんなふうに40数年営業を続けながら、オーディオは日々向上させてきました。限られた空間ではありますが、他の何処にもないジャズ喫茶をつくったと自負しています。上質の豆から1杯ずつ作るコーヒーも、お客様からは上々の評判です。
 お客様からは、映画人が何人か誕生しました。なかには、TVプロデューサーになられた方もあります。よく来られていたお客様の一人に作家の鹿島田真希さんがおられ、2012年に第147回芥川賞を受賞されました。作品の1つには当店が描かれています。
 一方、若い頃から志してきた映画では、私自身のプロデュース作品でもまた監督作品でも大きな賞をいただきました。店をやりながらとしては限界までやりきったのではないかと思います。
 そして2000年を機に、私は映画製作との関わりは完全に断ち、ジャズ喫茶経営に専念することにしました。

お客様に育てられ、お客様を育てて今の店がある

 話は前後しますが、『刺青』のリー・レコを行ったスタジオでは、録音機材がWestern Electric社製でした。Western Electricはトーキー映画のサウンドトラック・システムを開発した会社で、第一級の劇場では再生システムも同社製が多く用いられています。
 この気づきは、私のオーディオ熱に再び火をつけることとなりました。WEの資料を必死に集め、オーディオ〜音響工学を学問として捉える毎日が始まったのです。それはまた、私のオーディオ人生が先へ進むことでもありました。
 最近になって、嬉しいことにJAZZ KISSAが国際語になり、日本のジャズ喫茶を模範にした店が欧米で作られています。海外の書籍でも当店が紹介されており、海外のジャズ喫茶からメールでのご挨拶の連絡が来たりします。
 お客様に育てられ、お客様を育てて今の店があります。外国人のお客様も若者から中高年まで幅広く来店されます。比べるのは変ですが、その点でいうと日本の若い男子にはジャズ喫茶の壁が高いように感じられます。私がジャズ喫茶に通い詰めていた頃とは時代が違って来たということでしょう。
 それでは、次の時代に継承する文化として私自身が満足できるものを作り出せたのか否か。革新的文化を受け継ぐ次世代を作れなかったのではないかという疑問があります。それでも、若い方が新たにジャズ喫茶を開かれるという噂を耳にすると、それはそれで嬉しい気持ちになります。昔のような会話禁止のジャズ喫茶は望みませんが、何らかの形でジャズ喫茶文化は残っていくのだろうと期待しています。
 今日のいまも、私は私が選んだレコード盤をかけ、私が作ったオーディオ装置で再生しています。その空間でお客様は緊張しまた寛いでいらっしゃる、これが当店の日常です。
 これだけでよいのだろうか。何かやり残したものはないのだろうか。そんな自問自答の日々が続いています。この店は私の作った作品の集大成だと認めるべきでしょうが、どこかで安泰を求めて慣れに流されていないかが気になります。ジャズとオーディオと文化そして反原子力、貧困問題、社会問題等々の垣根を越えて何かを発信していってはじめて「JAZZ&somethin’else 喫茶・映画館」が成り立つのだと考えます。

3-3 JAZZ&somethin elseの意味と映画との関わり

 当店の看板にある「JAZZ&somethin elseのsomethin else」の意味を書きます。それは私がどのようにして映画と関わってきたか、すなわち当店が「映画館」を標榜する意味でもあります。

理系に進むはずが大道具手伝いとなって映画の世界へ

 まずは子供の頃の夢の世界から。
 ロケットを作り飛ばすことやモーターを作ることに熱中していたことがあります。小学生のときで、ロケットの本体は鉛筆のキャップに始まり鉛筆ホルダーへ。燃料の素材と入れ方で飛び方が変わり、2秒ほど飛んだときは大満足でした。
 モーターはキットのコア材を買い、巻き付けるエナメル線の太さを変えてモーターの力の変化を楽しんだりしていました。低電圧では、極力細い線で巻き数を増やすと良いのです。
 この頃は自分でも理系へ進むものだと思っていました。
 しかし、高校生になると一変して毎日のように映画館へ通い、それが嵩じて、将来は漠然と映画監督になりたいと思い始めます。しかし、8ミリなどで自分の作品を作るという考えはなく、まずは撮影所システムの助監督を目指しましたが、助監督になる方法がわかりません。
 そこで映画関係であれば何でもよいとの思いから、美術・大道具のアルバイトから始めました。実際の作業はセットの建て込みの手伝いで、家の壁などを組み立てる基本となるパネルの製作です。角材で3×6尺大の枠を造り、その上にベニア板を釘で止めてパネルをこしらえ、そのベニア・パネルに紙を筒状にして貼る「袋貼り」です。その袋の上に、再び紙を平面になるように重ねて貼っていきます。さらにその上に艶消しの泥絵の具を厚く塗っていくと完全な平面に仕上がります。この泥絵の具は、はじめての私には堪え難いほどの発酵臭が気になりました。
 それでも泥絵の具を使うのは、撮影時、平面パネルにはライトの光源がどこかに映り込んでしまいますが、艶消しになるため、光源がどこにも映らなくなるのです。
 このパネルを何枚か組み合わせて、部屋の壁を作ったりします。ここで使われるトンカチは片側に釘抜きが付いている、家庭用とは違う大道具専用の特別なものです。パネルを組み立てるときは、釘を打ち沈めずにトンカチの釘抜で浮かせて曲げて止めます。これはカメラの位置が変わった際にすぐに外せるようにする工夫です。
 この仕事は美術というよりも単なる手伝いであって、大工でもありません。この大道具での体験は後に店「喫茶・映画館」を作るとき、写真映りの良い内装を作る参考になりました。
 休憩時間にTVのチーフ助監督に話しかけると、大道具の手伝いをあからさまに見下したような態度。助監督とはそんなに偉い仕事なのかと思いました。
 その後1か月程経って大泉の東映撮影所で知り合いの大部屋の俳優さんに会い、休憩室で俳優さんなどを紹介していただきき、ピンク映画の助監督の仕事があることを知りました。それが監督・向井寛氏との縁に繋がっていきます。
 友人と二人で向井寛氏に直接連絡して喫茶店でお話をうかがい、助監督に採用されました。このとき、私は監督志望の助監督で、アルバイトの友人よりも高い金額のギャラを求めました。監督はこれを喜んで受け入れて下さいました。
 向井プロダクションで時代劇の大作『戦国軍盗伝』(仮題)をつくることになり、ロケ現場に戦国時代の山城を作ることを発案。大道具の手伝いが功を奏し、ロケ現場に近い材木屋から丸太から製材した後の木の皮の部分の廃材をロケ現場への配達込みで安値で買い、その廃材で山城の塀を作りました。イメージとしてあったのは、黒澤明の時代劇です。これには向井寛氏をはじめスタッフに気に入られました。
 ピンク映画としては珍しく10日以上かかり、編集済み試写を見ますとそれまでのピンク映画にはないスケール感がありました。上映時にはタイトルは変わっており、劇場では見ていません。

ピンク映画から、ひょんなことで市川崑監修のテレビシリーズへ

 当時のピンク映画は35ミリのモノクロフィルムでの撮影が基本。ただし、商品としての売りである濡れ場だけはカラーフィルムで撮影するパートカラー方式でした。向井寛氏はこの濡れ場で人気の監督でした。
 濡れ場へ繋がる話の部分は値段の安いモノクロフィルムで撮るわけですが、この部分は割合と監督の自由に作れます。助監督兼制作進行である私は自分の責任領域を超えた部分でも映画に関わることであれば何事でも顔を出し吸収していき、短期間にチーフ助監督寸前にまでなりました。
 この世界のことが少し分かってくると、同じピンク映画の若松孝二監督の所ではジャズと関わりがあり、気になりました。しかし、向井プロの一員である立場上若松プロへは行けません。
 濡れ場の撮影の多くはラブホテルを使いますが、リアルさを求めて一般家庭を使わせていただくこともあります。そんなときは相手方に台本の表紙だけを見せますが、そこには例えば松竹映像企画とか書かれていて、ピンク映画であることはわかりません。それはよいとしても約束の時間が過ぎてもなかなか撮影が終わらず、最後には喧嘩寸前の気まずい状態で後にすることもあります。当方の言っていることと実際にやっていることでは違いがあり、私はそこに疑問を持ちました。私自身が若かったこともあり、方向性の違いから向井寛監督とはしばらく距離を置くことになります。
 私は仕事の空いた時間には毎日「響」や「DIG」をはじめ都内のJAZZ喫茶を梯子しており、少しずつですがレコード盤も買いました。
 その後、経緯は記憶にありませんが、記録映画の監督とプロデューサーだと称する千田某氏に会い、六本木のアパートの一室に案内され「この部屋はみんなで金を出し合って借り、仕事を紹介し合っているのだ」と説明されました。このときたまたまそこに来ていた方から「観光船のPR映画」の助監督の仕事を勧誘され、その映画の製作会社はこのアパートに近い場所で、仕事をお受けすることにし、資料をいただきました。ところが、2〜3か月待っても撮影は始まらず結局は没ということに。しかし、そのとき担当者から代わりに市川崑監修のテレビドラマの途中第9話からスタッフとして交代して付くという仕事の紹介があり、私は大喜びで受けました。
 テレビドラマというのは市川崑監修の『市川崑シリーズ・追跡』で、関西テレビ、C.A.L(シー・エー・エル)と市川崑氏が立ち上げた「活動屋」の共同制作作品で、私の担当は仕上げ進行でした。
 前任者からの受け継ぎのため2〜3日の間は関係者を次々に紹介され、仕事の責任範囲をお聞きしました。麻布十番のアオイスタジオにある編集室がメインの仕事場となり、16ミリで撮影された全フィルムを見てから粗編集、その後で市川崑監修によるオールラッシュ試写〜本編集〜ダビング〜完成試写となります。
 私の仕事は彼らが気持ちよくスムーズに仕事が進められる環境を作ると同時に、編集の途中で生じたオプティカル処理のためにその部分をネガ編集から切り出してもらって東洋現像所へ届け、その翌日、オプティカル処理の上がったポジフィルムを受け取ってポジ編集へ渡すこと。ダビングの準備として、場合によってはフジテレビからレコード音源を借り受けることもありました。ダビング後、画のダビングロールをネガ編集へ届け、音のシネテープはリーレコ(再録音)へ、そして画と音のプリントされた完成プリントを東洋現像所から請け出し、関西テレビへは中央郵便局から空輸便で、フジテレビへは直接届けるまでが仕事の責任範囲です。
 アオイスタジオは東京でも一番大きな映画録音スタジオですが、あくまでも映画の録音スタジオです。TBMレーベルのジャズの殆どの録音がこのスタジオで神成芳彦氏によって行われたというのは驚きです。
 このスタジオの6階にある大きな編集室がメインの仕事場で、部屋の真ん中にある編集機をはさんで編集者と助手が向かい合わせに座り、記録の指示に従って粗編集を進めます。この粗編集が大変で、シーンの頭から順に撮っていくわけではありません。撮影現場では状況に応じて効率的に撮りますので、記録はその撮影全カットのシーンとカットナンバー、撮影状況を記録用紙に記していきます。
 現像所からは撮影順にラッシュ(ポジ)プリントが上がって来ます。同時録音の場合はスタジオで6ミリのオリジナルテープから16ミリ・シネテープへコピーされます。編集ではこのラッシュプリントとシネテープをシーンとカットナンバーに従って切り出して整理していきます。この整理整頓が重要で、次に記録の立ち会いで記録用紙を読みながらOKカットを繋いでいきます。

テレビシリーズ第15話は唐十郎監督の「汚れた天使」

市川崑直筆のカット割りがされた台本
 シリーズ第1話は鴨三七脚本、市川崑監督による「いかさま天使」で、監督は撮影に凝りすぎて予算と時間をオーバーしてしまい、シリーズの他の作品の制作費から予算を吸収して補填して行くということになったそうです。写真は市川崑監督直筆のシナリオ1ページ目です。
 しばらくすると、千田某氏からスタジオへ電話がありました。「グループ関係者の紹介で仕事に就いたのだから、ギャラの一部を自分達のグループへ出せ」とのことでした。私は「観光船のPR映画の助監督はあの部屋の方からお誘いを受けた仕事ですが、2〜3か月無収入で待機させられ、その保証もありませんでした。あの部屋の会員に参加もしていませんし、千田さんとは関係がありません」と拒否しました。いろいろ言っていましたが、千田某氏とは一度会っただけの間柄。こんなことで金銭を要求する人間性の低さに唖然とするばかりでした。千田某氏とは、その後思わぬところで、立ち位置が逆転した形で再会することになります。
 この仕事は、その気になればいくらでも勉強できる環境にあります。私は絶えず半歩前を進んで、スポンジのように多くを吸収していきました。ネガ編の助手の女性からは、多くのことを訊きすぎたのか、「仕事は習うものではなく盗むものだ」と怒られましたっけ。
 一番の悩みは、予算がらみでした。1話分での仕上げ予算は前任者と大きく違ってはならないというのが大前提でしたが、途中参加ということもあり、低予算の映画をやってきた私には、その金額が多すぎて使い切れずに余ってしまうのです。
 このテレビドラマ『追跡』では多くのことを学び、映画人として成長できました。第15話は石堂淑朗脚本、唐十郎監督「汚れた天使」で、撮影前からテレビの世界とは異なる状況劇場の異空間の斬新さが伝え聞こえました。
 舞台は時空を超えた「下谷万年町」の設定で、女装した不破大作の「交通整理のおばさん」、根津甚八演じる人形遣い、同性愛指向の人物設定、セックスを象徴する指文字のアップ、トイレの便器に顔をツッコむ、小林薫を乗せた騎馬行進等すべての場面に今までのテレビには見られない、唐十郎ならではの独創性とエロチックさがあり、スタッフの多くは歓喜しました。オールラッシュ試写では李麗仙がマックスファクターの口紅をつけるカットがあり、広告の面からこれが問題になりカットを入れ替えました。
 ダビングは唐十郎監督を中心に行われ、アフレコには李麗仙、根津甚八、小林薫、不破大作、十貫寺梅軒、大久保鷹、他女優らが参加しました。
「汚れた天使」台本と予告編フィルム
 完成・初号試写ではプロデューサーはじめ試写を見たスタッフがあらためて感動し、OKが出て、フジテレビへ納品。この日の夜、2号プリントを現像所から受け取り、中央郵便局より関西テレビへ航空便で発送しました。
 しかし、事態は暗転します。翌日、製作会社の関西テレビより突然の通達があり、「内容が非常識で猥褻な表現は家庭で見るテレビに則さない」とのことで放送は中止となりました。全スタッフが緊急に集まり、この通告に反対の声明を出しました。
 「追跡」シリーズは第18話・助監督〜監督補であった岡野敬氏監督昇進作品「天使の哀歌」(脚本・西澤裕子)は台本が第2稿まででき上がっていましたが、制作中止を決定。第17話富本壮吉監督「天使の罠」は撮影が終了しており、急遽これを繰り上げて最終回・第16話とし、ダビング〜ネガ編集〜プリントの局への発送を進めていきました。
 ダビング終了後、通常では監督は帰宅されますが、富本壮吉氏は私を待っていて、氏所有のオースチンのクラッシクカーでネガ編の所まで送って下さいました。そのとき「自分の作品はテレビドラマの安全パイで、代替えだ……」との愚痴をこぼされたのが、異例のこととして記憶に残っています。
 テレビドラマは家庭の団欒の延長にあり、例えば時代劇の斬り合いでも、リアルに考えれば血が流れてもがき苦しんで死んでいくはずですが、視聴者との暗黙の了解と自主規制により、団欒を壊す表現のカットは入れません。「汚れた天使」は凄惨なカットはありませんが、平和で安寧な団欒とは反対の差別された集団の人物設定と猥雑さに満ちています。そこがこの作品の最大の面白さです。
 今は故人となられましたのではじめて公にしますが、東京のプロデューサーT氏より「汚れた天使」自主上映の話をいただきき、参加しました。私が仕上げ進行として編集ラッシュプリントと16ミリ・シネテープ関連資料を管理していたからでした。このラッシュプリントとシネテープは私が持ち出し、状況劇場へお渡ししました。
 その直後に東京の製作会社である、C.A.LのプロデューサーS氏がプリントとシネテープの回収に来られましたが、既に手元にはありません。後年、この、C.A.LのS氏よりシノプシスを書く仕事話をいただきましたが、私には時間がなく、この仕事は当時付き合っていた渡辺絹子がしばらく続けました。
 また、『週刊新潮』編集部から雑誌で紙上試写会を行ってはとの打診があり、ネガ編の方にお願いし、ネガ編助手の方が徹夜で協力して下さってカット破片から拾い出したネガフィルムを提出しました。ネガフィルムの編集では、ポジフィルムのエマルジョンナンバーを読み取り、同じ部分のネガを切り出して編集します。ポジ編から要求されたら、どんなカットであってもそれを出さなければなりません。今回の事例のように絵柄から探し出すことは作業が通常とは異なり、大変な労力が求められます。また、カット破片であっても、ポジ編以外へ出すのはあってはならないことです。編集の終了した作品で、仕上げ進行の私の求めだから助手の方に出していただけたわけで、ネガ編集者は関与しません。つまり、全責任は私にあります。
 週刊新潮・誌上試写会は3ページにわたって掲載されましたが、今思い返しても、大胆なことをしたと自戒の意味を込めて思います。当時は若かったこともあり、この作品が埋もれてしまうことに無念の思いがあり、青臭い正義感もはたらいたのでした。

製作会社から暗黙の追放宣言を受ける

 「汚れた天使」自由劇場での一般公開の翌日、私と監督補の岡野敬氏の2名が製作会社から暗黙の追放宣言が申し渡されました。
 自主上映ではプロジェクターの回転スピードを選択するスイッチがSilnt・16コマになっていたため、1〜2分で音がズレてしまいます。このことに気づくのに時間がかかってしまい、その間、状況劇場の役者たちはスクリーンの前で寸劇を行ってしのぎました。スイッチを24コマに直してからは、スムーズに上映できました。
 富本壮吉監督「天使の罠」放送直後の夜に編集のO氏から電話があり、自主上映を叱責され「あなたには2度と電話をしません」と断交を宣言されました。その後O氏は市川崑監督の劇場映画の殆どを編集として担当、「市川崑の懐ろ刀」と言われるまでになり、編集者として賞も受けています。
 また同時刻に、担当プロデューサーより「追跡」の直接の製作会社である「活動屋」へ来るように呼ばれます。私は仕上げ進行の前任者にも来てもらうよう求めました。
 そこは赤坂TBS前にあるCMの製作会社の一角に机を一つ置いただけの事務所で、ふだんは経理担当者が一人いるだけでしたが、このときは珍しくも市川崑氏とプロデューサー2名、さらに仕上げ進行の前任者も来られましたが、自主上映の話は一切なし。仕上げ費の精算をし、各位へご挨拶をして終わりとなりました。これが大人の世界なんだよなあと感じたことを思い出します。
 市川崑氏は新しい映画を作って来られた方ですから「汚れた天使」に斬新さを感じないはずはありません。この事件の後に作られました劇場映画『犬神家の一族』での湖に浮かぶ2本の足のポスターは、「汚れた天使」からの何らかの影響があったのだと私は考えております。
 市川崑氏は所謂市川組を作り、スタッフを余り入れ替えず育てていきます。この映画では私と監督補だったO氏を除いた「追跡」の多くのスタッフが参加しております。
 これらのことは映画人として生きていく上での成長の基盤となりました。映画現場の裏話を長々と書きましたが、新しい作品で切り拓いていくとは何かという問いは、JAZZ喫茶をやっている今でも私の中に残っております。

早大演劇博物館への寄贈品
 「汚れた天使」全撮影カットのスクリプト用紙全ページと編集済み予告編は私が保管しておりましたが、近年『追跡』の他の作品の台本と共に資料として早大演劇博物館へ寄贈致しました。

時間の余裕ができて始めたオーディオ製作

 話は変わりますが、この頃から時間の余裕ができ、自作オーディオの製作に取り組むこととなります。
 真空管2A3の2本を1本にした双三極ロクタル管6BX7を使ったアンプをタムラの高級トランスを使って自作し、これが後に木製シャシーのアンプと発展します。
 また、JBLのD216と云うヴィンテージ・スピーカーの新品を見つけ、奮発して買いました。20cmのフルレンジですが、低域〜高域のバランスのとれた音はそれぞれの楽器の音が誇張なく自然に聴こえ、現在まで音創りの基本となっています。D216ユニットの美しい作りにも感動しました。
 映画人としての夢は持ち続けたまま、この後も映画の世界とは繋がっていきますが、それはまた次回に。
 私は現在「JAZZ&somethin else 喫茶・映画館」を営んでいますが、真空管アンプに灯を灯し、お客様が来てコーヒーを入れて、JAZZのレコードを掛ける……そんな日常の行為で作る「空気と時間」が作品だと考えています。

3-2 ジャズと出会った頃から

1960年代、ラジオのステレオ放送があった

 私がはじめて流行りの音楽を意識して聴いたのは、まだ小学校入学前の頃。美空ひばりの「悲しき口笛」「東京キッド」「リンゴ追分」といった歌に魅了され、風邪を引いて寝込んだときなどはSP盤で何度も繰り返して聴いていました。巷では映画『エデンの東』のテーマ曲が人気で、いつもラジオで流れてる時代でした。
 当時の映画館は劇映画の上映の前にニュース映画を上映するのがならわしで、その中で見たハンガリー動乱に衝撃を受けた記憶があります。通学途中の川越街道を米軍の戦車の隊列が走るのを見たこともあります。
 やがて高校に進学した頃、ベルリンの壁ができ、有刺鉄線をくぐり抜け命懸けで脱出する人の姿をニュース映画で見ることになります。世界は決して平和ではない、そして庶民と政治の乖離を感じました。
 高校生となった1960年代、ラジオのAM放送で「立体音楽堂」という名のステレオ放送が行われていました。2台のラジオのダイアルをNHK第一とNHK第二に合わせると立体=ステレオ放送になるという仕組みでした。また、FM東海では一つのダイアルでステレオを聴ける実験放送も行われていました。しかし、FMチューナーは普通のラジオには付いていません。そこで自分用の携帯ラジオを買いました。2台並べて選局すると、たしかにステレオになって左右に音が広がって聴こえます。
 母方の親類が文京区音羽で運送業を商っており、パイオニアの前身である福音電機の配達も請け負っていた繋がりで、福音電機社長の松本氏も時々家にお茶を飲みに来られました。私がFMステレオの話をしますと、「これを使って見なさい」とスピーカー2本をくださり、これらを簡易型の箱に入れて形の異なる2台のラジオに繋ぐと、音が今までとは違ってクリアーになり、レンジも広がるのが感じられました。これが私のオーディオと工作の原点です。

ラジオのDJ番組でジャズと出会う

 友人がJAZZの中古LP盤を安く買えるというので上野のレコード屋へ付いて行ったのが、中古LPレコード店との出会いです。
 彼の持っているプレイヤーにはロッシェル塩のLPレコードのイコライザーに近い、圧電原理を応用したクリスタルカートリッジが付いており、私はレコードの出力をラジオで聴けるようにする改造を手伝ってあげました。
 このカートリッジは先端でひっくり返すとSP用とLP用に切り換え使用ができる、LP/SPターンオーバー式の製品だったと思います。当時、一般家庭にあるレコードプレイヤーの多くは、20〜25cm位の鉄板プレスのターンテーブルをアイドラーを介して回転させる方式で、プーリーを選択することでSP78回転/EP45回転/LP33回転を選べ、100Vの電源さえあればどこへでも持っていける小型軽量のものでした。
 JAZZを意識して聴くようになったのは、1964年、東京オリンピック以降のラジオ番組によってで、ロイ・ジェームスの「トリス・ジャズ・ゲーム」、大村麻梨子の「ララバイ・オブ・トウキョウ」などパーソナリティーの声と博識に魅了されて毎週欠かさず聴いていたものです。ラジオのDJの語りは、心が休まる声でもありました。

はじめてレコードを買い、プレイヤーを自作する

 私がはじめてLPレコードを買うことになるのはその数年後で、ところは銀座のヤマハ。レコードを選ぶのは自分にとっては儀式のようなものですが、最初のそのときエサ箱(レコード箱)から選んだのはジョン・コルトレーンの『ASCENSION』でした。これを選んだのは、コルトレーンの凛々しい姿が目を引く豪華なダブルジャケットに惹かれたのとJAZZ喫茶ではそれまで聴いたことがなかったからです。所謂ジャケ買い。まだプレイヤーは持っておりませんでしたから、友人宅へ持参して聴かせてせてもらいました。今ジャケットの裏面を見ると、1968,12,30,と購入日が記されています。このレコードにedition-1とedition-2があることを知るのは、当店にコレクターの集まりが来るようになってからでした。
 LPレコード盤を聴くために自作プレイヤーを作ることを考えるようになったのは、その後のことです。まずは秋葉原へ行き、30cmアルミ・ターンテーブルと軸受けの一式、そして中古のテープレコーダーから外したシンクロナスモーターを購入しました。
 LPレコードを乗せるターンテーブルは直径30cmで毎分33回転ですが、これに対しモーターは50Hzでは1500回転。そこで、(30X33)÷1500=0.66及び(30×45)÷1500=0.9の数式の値を得、真鍮製プーリーを付けた状態でモーターを回転させながらヤスリで削りだしていきます。それが直径6.6mm及び9mmのの数値に近づいたら、糸ドライブ方式でターンテーブルに繋ぎます。ターンテーブルにはストロボスコープを付け、50Hzの電灯で速度を読みながら微調整します。ちなみに、6.6mmに繋ぐとLPで、9mmに繋ぐとEPとなります。
 モーターはサスペンション経由でターンテーブルを取り付けた厚板の端に直接付ける簡易型にし、トーンアームは当時革新的な造りでデビューしたフィデリティ・リサーチ社のFR24、カートリッジはグレースの名器F8を奮発して買い、高級機に劣らないプレイヤーを作りました。
 このFR24アームは、白山下に店を開店したときに45cmロングアームに改造しました。また、グレース製のアーム軸受を使ってステンレスのシームレスパイプを叩き出し、45cmカートリッジ直付けのアームも作りました、ただし、これは自重が重く、長年使っていると針先が引っ張られて内側へ少し曲がってしまいました。
 ちなみに、現在当店で使用している1台はMICRO製吸着式真鍮製ターンテーブルで、アダプターを付けると36.5cmある高級機ですが、原理は同じ糸ドライブ式です。
 その後、PRESTIGE『SOUL TRANE』のLP盤を買おうと思って中古レコード店に行くと、数倍値段の違う盤が2種類ありました。レコード盤を見ると、その違いはレーベルが黄色と紺色であること。どちらも今で言う重量盤で、私は安い方を買いました。今思うと、高い方の盤はオリジナル盤で、現在の相場からすると安かったです。私が買ったのは2ndプレスだったのでしょう、3rdプレスからは盤が薄くなります。その後PRESTIGEレーベルの新品特価盤紺ラベルを何枚か買い、PRESTIGE紺ラベルはImpulseやヨーロッパ盤に比べ音が悪い印象を持ちましたが、当時はオリジナル初回プレス盤と再発盤では音が違うなどの知識を持ち合わせておりませんでした。

映画とジャズに明け暮れた高校時代

 話は前後しますが、高校も2年生の頃から、週に2〜3回は映画館へ通っておりました。
 山窩(サンカ)で知られる三角寛氏が池袋に創業された「人世坐」ではそれまであまり見られなかったポーランドをはじめ、ヨーロッパ映画を2日交代で上映する映画祭「外国絵映画カバルケード」を1〜2か月程催しており、学校が終わると、学生服姿のまま毎日これに通いました。多く見られることのない地味な映画が中心のプログラムで、ポーランド映画のアンジェイ・ワイダ監督『灰とダイヤモンド』『地下水道』では、ゴミの山で息絶えるラスト、必死の思いでようやく辿り着いた出口のはるか後方にソ連の軍艦が停泊しているといった情景、作品全体の構成や緻密な演出に魅了されました。
 また、ルイ・マルの『死刑台のエレヴェーター』ではマイルス・デヴィスのモダン・ジャズが場面と共鳴しながら全編に流れ続けるのに驚き、はじめてモダン・ジャズを身近に感じました。この映画に登場するメルセデス ベンツ 300SL ガルウイングドアの現物を赤坂の駐車場で何度も見るといった体験もありました。この車の所有者はあの石原裕次郎氏でした。
 この人生座では、1960年に松竹で製作されたものの3日で上映中止となった大島渚作品『日本の夜と霧』を『青春残酷物語』との2本立て上映が行われました。これを見たことは、その後の学生生活に大きな影響を与えてくれました。
 日曜日になると私服で新宿に出、「日活名画座」などでウィリアム・ワイラー、ビリー・ワイルダー、エリア・カザン、エドワード・ドミトリク、チャールズ・チャップリン、ドルトン・トランボらの作品を観、そのあとはJAZZ喫茶「木馬」か「DIG」へ寄ります。一方、銀座では「並木座」で旧作日本映画を観てからJAZZ喫茶「69」へ行くといったことが定番コースとなりました。
 色々な名画座で未だ童顔の高校生が連日行くのですから、顔も覚えられて招待券をたくさんいただきました。人世坐の三角寛館長からも可愛がられ、やがては映画の世界へと夢が広がっていきました。
 ATG(日本アート・シアター・ギルド)が生まれたのもこの時期で、「新宿文化」「後楽園アートシアター」「日劇文化」が次々と設立。私はすぐに「新宿文化」の会員となって『女僧ヨアンナ』を手始めに通いつめました。アラン・レネ『去年マリエンバードで』からは、十分に理解できていたかはともかく、大きな衝撃を受けました。そして、こちらはフィルムセンターだったかも知れません、レネの『二十四時間の情事 Hiroshima, Mon Amour』を見たのでした。
 オーソン・ウェルズ『市民ケーン』、ミケランジェロ・アントニオーニ『愛と殺意』の2作はまだ劇場公開がなく、フジテレビの午後3時からの放送で鑑賞。アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』もまたテレビではじめて見ました。
 岩波ホールが映画上映を始めるのは1974年になってからで、ここではトルコ映画、ユルマズ・ギュネイ『路』が今でも心に残る思い出深い作品です。今ではATGはなく、岩波ホールの映画上映も見ることができないのは残念至極です。
 当時、ラジオの短波放送ではヨーロッパ各国へ届く番組が流されており、国際情勢だけでなく、当世の流行音楽を聴くこともできました。戦時中の日本では押入れでひそかにラジオでJAZZが聴かれたという話がありますが、こちらもラジオにはお世話になりました。そういえば、旧ソ連をはじめとする東欧圏では若者たちが病院で使用済みとなって廃棄されたレントゲン写真にラジオから流れたビートルズの音楽をカッティング。レントゲンレコード(ろっ骨レコード)と呼ばれ、地下で密かに聴かれていたというのは有名な話です。政治の力がいくら強くても、一度でも新しい文化に触れた若者を押さえつけることはできません。これが東西の壁を壊す原動力になったと思います。
 最近の事例では、2021年ドイツの首相アンゲラ・メルケルがその退任式で軍楽隊によって演奏される曲に自身の青春時代の東ドイツのヒット曲、ニナ・ハーゲンの「カラーフィルムを忘れたのね」を選んだといったエピソードが思い浮かびます。
 以上述べてきたような映画作品を1960年代後半に無理を押して見てきた体験は、私の大きな財産です。当時は高校生が学生服で喫茶店へ寄っても問題にされる時代で、毎日のように映画館へ制服で通うのは停学覚悟の上でのことでした。これほどまでに映画館に通いつめるには当然ながらある程度の資金が必要で、春夏冬の休みにはデパートの配達のアルバイトをしました。しかしながら、配達所から近い地域への配達は大人に回され、高校生の私に割り当てられるのは区の外れの地域ばかり。その地域への往復に大半の時間を取られ、その結果、配達はせいぜい1日に1回。収入は少なく、大人の半分くらいの稼ぎにしかなりませんでした。

「喫茶・映画館」では、ヨーロッパ盤と国内レーベルを収集

 1978年に白山下に「喫茶・映画館」として店を開いたときは、外国映画の上映もしたかったのですが、これはかないませんでした。外国映画の1日のレンタル費用が高すぎたためです。そこで発想を切り換え、日本映画のヌーベルバーグ史に残る作品の殆ど全てを上映しました。
 映画上映会以外の日は手持ちのコルトレーンを中心とした50枚程のLPを掛けながら自作のアンプ類で営業を始めた店です。レコード盤を週に数枚購入するペースで増やしていきました。コレクションも200枚を超すと方向性が見えて来ます。
 東ヨーロッパのモダンジャズは意識的に買っておりました。東ドイツやリトアニアのウラジーミル・チェカシン、ポーランドのクシシュトフ・コメダ、ハンガリーのアラダー・ペゲ、ユーゴスラビアのダスコ・ゴイコヴィッチ、チェコスロバキアなどロシア国境に近い国の人々のジャズには屈折が内在し、母国の伝承音楽の旋律を取り入れたり、哀愁に満ちた魅力と同時に前に進もうという力を感じさせます。
 しかし、旧ソ連の国営レーベルМелодияであってもロシアの衛星圏の人々の演奏で、ロシア人のモダンジャズには出会えませんでした。映画ではソ連のアンドレイ・タルコフスキー1972年の『惑星ソラリス』があります。
 また、1980年〜95年にかけて中国では映画の黄金期を迎えます、『黄色い大地』『覇王別姫(さらば、わが愛)』『芙蓉鎮』『古井戸』などが作られました。文化は人々の精神性を研ぎ澄まし、政治を超える力が存在すると思います。
 国内レーベルでは、有楽町の中古専門店「ハンター」でTBM(スリー・ブラインド・マイス)の新品が中古扱いで格安で大量に出ているのを見つけたのを機に、TBMのオリジナル盤のコンプリート収集を目指しました。このレーベルは日本人の新作が中心ですが、TBM-9として1964年銀座・銀巴里でのジャムセッションが『GINPARIS SESSION June 26.1963』としてアルバム化されています。
 また、『水野修考 ジャズ ・オーケストラ73』(TBM-1001)は定価¥3000の完全限定盤、24ページのスコア付きで、豪華メンバーと優れた演奏から愛聴盤となっています。このレーベルのディスクは、録音がすべて麻布一橋のアオイ・スタジオで行われています。実はこのスタジオは私自身も映画の録音でよく使いましたが、ここで大編成のジャズの録音をされていたとは驚きです。
 国内レーベルではもうひとつ、takt jazz series の「now’s the time/ akira miyazawa」 に出会い、このレーベルカラーに共感してレーベルのコンプリートを目指すことになります。集まったのは〈ジャズ・シリーズ〉のJAZZ-1〜JAZZ-17まで、〈ニューストリーム・イン・ジャズ・シリーズ〉の3001〜3003で、これらがTAKTとして出された全作品となります。そして、そのあとは日本コロムビア〜タクト・ジャズ・シリーズと銘打った、カタログ番号XMS-10001から始まるシリーズに受けつがれていきます。

コレクションの極めつけは守安翔太郎ライブ7インチ盤

 この時期に入手した貴重盤では、スウェーデンの私家録音レーベルHistoric Performances Recordsから出されたコルトレーンのライブ録音全5枚がまずは出色。いずれも初回プレス盤で、レコード店で多く見かけるこのLP盤からのコピー録音盤とは音が全く違います。
 また、『1961年Newport Jazz Festival John Coltrane Quintet』はLP盤プレス前のラッカー盤を入手。録音状態は良くありませんが、アルバム化されていませんので、この61年Newport の記録はこの1枚かと思うと貴重です。
 そして、私が強い関心を持ったのがKINGジャズシリーズのオリジナル盤です。秋吉敏子、宮沢昭、白木秀雄、ビッグ・フォーなど日本のモダンジャズを切り拓いた錚々たる面々のアルバムがあり、厚紙ジャケットでの再発盤は見かけるものの、オリジナル盤はとりわけ入手が困難でした。
 このシリーズは1994年に滝口氏が全17枚のアルバムをオリジナル盤と同じ仕様、当時の定価表示だけを消した薄紙ジャケットで作ったもので、うち16枚は¥3000。ヘレン・メリル盤のみが¥3800で限定再発売されました。ただし、いまはもうその再発売盤も入手困難になっています。
 油井正一、岩味潔両氏が起ち上げたROCK WELLレーベルから出た『Shotaro Moriyasu Memorial』(ME-503)も特筆ものの貴重盤です。守安翔太郎の自殺後に追悼盤として出されたもので、内容は銀座のJAZZ喫茶「コンボ」に集まっていた面々が横浜・伊勢佐木町のクラブ「モカンボ」で行った深夜ジャムセッションの一部。録音は岩味潔氏で、自作のテープレコダーと紙テープが使われたといいます。その紙テープが長年保管されていて、世に出ることになったのです。
 守安翔太郎氏は当時宮沢昭、上田剛、平岡昭二らとコンボを組み、日本のモダンジャズの最先端を走っていた天才ピアニストで、1955年9月26日、「いよいよ俺は姿を消すよ」と油井正一氏に言い残し、翌々9月28日の夜9時過ぎ、目黒駅で投身自殺された方です。享年31。若き才能の消失が心から惜しまれます。大きな才能に出会えることは、私たちにとって最大の喜びです。自死を思いとどまらせる言葉を誰も持ち合わせなかったことが悔やまれます。
 1970年代に入ってからだったと記憶しますが、この録音はPolydorとRocwellからのLP盤4枚組『THE HISTORIC MOCAMBO SESSION 54』として正式リリースされました。守安氏の死から16年後のことでした。守安翔太郎氏の演奏中の写真は、ピアノの上から撮ったこの1枚以外見たことがありません。
 そののち1998年にはCD3枚組『THE COMPLETE THE HISTORIC MOCAMBO SESSION 54』として復刻されており、こちらにはLP盤ではテープの状態がよくないために割愛されたハンプトン・ホーズの演奏も含まれています。
 これらのもとになった7インチ盤『Shotaro Moriyasu Memorial』は、私が岩味氏から直接頂戴したもので、守安翔太郎氏の先進性や生き方を含めて、当店の看板レコードの1枚となっています。

第3章 JAZZ 喫茶映画館への道のり 3−1 店はいかにして作られたか

この町には映画館はない……

 平岡正明氏の著書『立川談志と落語の想像力』(七つ森書館、2010年)の1章4項冒頭は、
「文京区白山に『映画館』というジャズ喫茶がある。交番できくと、このあたりには映画館はありませんよと言われたが……」
との書き出しから自作のオーディオについて細部に渡って描写されています。その後に続く「店主のいうとおりエレクトロヴォイスを加えると何かが匂い立つ。その匂いは銀杏の身の匂いだった」は、私の心に深く響く言葉です。
 「このあたりには映画館はありません」という一節についていえば、実際に本物の映画館だと思って店へ来られた方がいますし、上映は何時からですかと聞かれることや、何故「映画館」なのかと問われることもありました。店名の「映画館」と入口の映画の撮影現場をイメージしたオブジェや大きな看板から、近場の大学生などの印象に残りはしても、卒業間近になってから「気になっていたのですが入れず、卒業なので入ってみた」と言われる方もいらっしゃいました。
 また、「JAZZ喫茶・映画館」の店名は独自の意味をも持つらしく、作家・鹿島田真希氏の2012年第147回芥川賞受賞作『冥土めぐり』(河出書房新社、2012年)に収録された1作「99の接吻」にても、数頁にわたり主人公の内面を表すシーンとして当店のポスターやメニューなど事細かく書かれております。
 一つの文化を示す「映画館」の店名、映画上映に主眼を置いていた時期には違和感を感じていませんでしたが、2000年に私自身が映画の制作現場から離れ、自分の意識の中でJAZZ喫茶を主軸にしてからは「映画館」という店名に引っかかるものを感じることもあります。それでも「映画館」というインパクトのある店名にしたことで映画上映の他、詩の朗読会、舞踏、トークイヴェントへとつながっていけたのだろうと思います。

『MOVIE THEATER2』より
 蛇足ですが、名画座だけを網羅した高瀬進氏の写真集『映画館(MOVIE THEATER)』(冬青社)は当店を名画座と同等に位置づけ、NO2号で紹介しています。これはとても嬉しいことでした。「JAZZ喫茶・映画館」であるからこそ、私の人生の後半を賭ける意味も感じられます。
 ちなみに、白山下当時の「喫茶・映画館」は、当店を根城にしてた若い学生たちからは「ガカン」の略称で呼ばれていました。16ミリフィルムを1日3万円のレンタル費で借り、映画上映会を月2回以上開催。上映日にはレンタル料金回収のため2〜3回の上映を行いましたが、それでも経済的にはなかなか追いつきません。
         16ミリ映写機
 その後、白山上への移転時には店名も「JAZZ SPOT・喫茶・映画館」として目立つ看板を作り、店内にはスピーカー前面上の天井にロール式幅2メートルのスクリーンを設置。店内中央近くには天井から16ミリの映写機を吊り下げて固定し、いつでも直ぐに映画の上映が可能な環境を整えました。
 ところが、私自身の映画現場での仕事が忙しくなり、1〜2か月先の予定を組むことは難しく、結局は毎月の定期的映画上映はとりやめとなりました。代わりに、上映作品の映画の監督もしくは製作スタッフをゲストとしてお呼びし、その作品に関する当店独自の参考資料を作成配布する「映画上映+トーク」という方式に変えて年に数回の映画上映会を開催。回数は減ったものの質的にはより丁寧で中身の濃い上映会を続けています。

常連客の学生の発案で店は演劇の舞台に

 前にも書きましたが、白山下の店は公道に面していましたが、移転した白山上は私道に面しており、店内も長方形に近い形状です。移転して暫くしてから、常連だった学生から当店で芝居の公演をやってみたいとの打診があり、実施することにしました。
 まずは、舞台の設計です。演出家は、テーブルをすべて店外の私道に出して並べ、店内の壁面には椅子を置いて、店外から店内へ続く空間を使った芝居を考えました。稽古は大学で行い、上演当日に当店で通し稽古を行ったところ、急遽壁面に暗幕を貼ることになり、大学へ取りに行ったりました。このような直前でのドタバタもありましたが、それはそれで私には勉強になりました。劇自体は一人芝居形式でしたが、なかなかの迫力に満ちた公演でした。

朗読会のテキストとなった詩集
 この公演が呼び水となり、店の空間を使った活動は日常のJAZZ喫茶営業と映画上映だけでなく、舞踏とJAZZとのセッション、写真展、詩の朗読会、トークイイヴェント等々へと拡大。活動の幅が大いに広がりました。詩の朗読会にいたっては、かれこれ20年以上続いています。
 ただし、店はイヴェントスペースではありません。「喫茶・映画館」で行うイヴェントとして独自の意味をもたせなければなりません。主軸はあくまでも「JAZZ喫茶・映画館」であり、しかも前を走って切り拓いて行く必要があります。結局は、その日常活動の「JAZZ喫茶」の質を高めることが最重要課題だとの認識を深めました。
 質を高めるとは、JAZZレコードを私の作り上げたオーディオ装置でしっかりと聴かれるお客様を一人でも多くすることです。そのための要は、JAZZ喫茶としてのレコード・コレクションにあります。
 私の店では収容枚数に限りがありますから、何でもかんでもコレクションするわけにはいきません。そこで他店との違いを出すため、日本のJAZZそして北欧〜東欧のJAZZを意識的に求め、演奏レベルの高いものを残していくようにしました。ファースト・プレスと再発盤・日本盤では音が違いますので、好きなアルバムについてはファースト・プレスのオリジナル盤に買い直したりもしています。
 そして、オーディオでは生音に近いリアルな再生を求め、生の音をよく聴き、それを録音したものと比較しながら調整するなどして日々整備。こうして生音に近づけますと、大音量の中でもお客様同士が小声でも会話ができるようになりました。

「JAZZ SPOT 喫茶・映画館」から「JAZZ&somethin’else 喫茶・映画館」へ

 2011年3月11日の東北大震災による福島第一原発の事故は衝撃が走りました。地理的に多少離れていてもその影響は大です。原爆での被爆体験のある日本で、発電所事故により再び被爆した、3度目の大規模被曝となります。

虎太郎、パンドラの箱を開けてしまった
 事故の直接的影響ではないでしょうが、当店では地上スレスレを歩行する看板猫・虎太郎が甲状腺機能亢進症になりました。また、アクリル看板にヒビが入り「JAZZ SPOT 喫茶・映画館」から「JAZZ&somethin’else 喫茶・映画館」に作り変えました。
      壊れた看板
 「JAZZ SPOT」から「JAZZ&somethin’else」に変えたのは私のこだわる「先端を走る文化」は「JAZZ&somethin’else」だと思ったからです。今までの活動でお知り合いになった方々から、報道されていない事故の様子や被曝の状況をお聞きしました。原発事故に対し「JAZZ喫茶・映画館」の存在が何か働きかけができないかと考えました。
 そこで、原発事故に対する、被爆後の世界を描いた映画の上映+討論会を2011年4月8日(金)に緊急上映会としての開催を決めました。上映作品は記録映像『脱原発 銀座デモ パレード』(2011.3.27.)と、1987年スウェーデンのStefan JARL監督のドキュメンタリー映画『脅威/HOTET UHKKADUS』の上映と討論会。B5判で50ページ強の冊子を急遽妻と二人で作りました。
 『脅威/HOTET UHKKADUS』は当初スウェーデン北部の少数民族サミ(ラップ)のトナカイを飼育し自然と共に生きる生活を取材していましたが、1986年4月26日、ソ連のチェルノブイリ原発で史上最悪の事故が発生。これによりサミの生活は一変します。ドキュメンタリー映画の撮影も原発事故後のサミの生活に変わり、映画『脅威』は死体と化したトナカイをヘリコプターで運んでは穴に埋めるシーンから始まります。
 この映画は映像ドキュメント.comが上映権付きでフィルムを購入されていて、それをお借りして上映しました。これをご縁に映像ドキュメント.comとは公私にわたり付き合いが続きます。
 核被爆後の世界を描いたものとしては、その他、ネビル・シュートのSF小説と、それを映画化した1959年のスタンリー・クレイマー監督による劇映画『渚にて/ ON THE BEACH』もお薦めです。第三次世界大戦で世界中が核に侵され、逃げ場を失った人々はどう行動するのか。現在に通底する重い命題を投げかけます。ビデオかDVDであると思います、是非ご覧になって下さい。
 2011年度以降は震災〜原発事故の影響から、主な催しものはJAZZに始まりトーク・イヴェントとその内容も硬軟取り混ぜとなります。その一部を列挙すると、下記のようになります。

店がイヴェント・スペースとなった日々

 2011年12月11日(日):シンポジウム『戦後、ゼロ年、それから』。出演―野村喜和夫、三角みづ紀、金子鉄夫、森川雅美。司会―郡宏暢。2011年を締めるイヴェントとして詩人を中心に行われました。
 2012年4月14日(土):映画上映と講演。木村威夫氏三回忌・映画会&プロデューサー・トーク「馬頭琴夜想曲」。出演―川端潤、万琳はるえ。協力―Airplane Label。
 このときのポスターは今でも店内奥に貼ってあります。Airplane Label様は2022年の5月と10月にCDアルバム化のため、坂田明+瀬尾高志のLive at HAKUSAN EIGAKANの録音を行われており、23年7月に発売の予定です。
 2012年8月13日(月)〜25(土):報道写真の野田雅也氏写真展「MOTHERLANDO」。核実験場に利用され汚染されたチベットと、原発事故で汚染された福島とを比例した写真展を行い、最終日には野田雅也氏のトークも行いました。
 野田氏は福島原発事故後直ちにヨー素剤を飲まれて福島第一原発正門前まで取材に行かれたそうです。その後の正門前は規制線が張られ、近づくことはできなくなりました。現在も当店の奥に飾られている全紙大の写真パネルはこの時飾られたもので、野田雅也氏が市民からのカンパでヘリコプターを飛ばし、首相官邸へのデモ隊を撮影した写真で、そのまま残りました。また、この時の写真をまとめた写真集があります。
 2012年10月18日(火)には毎年秋に行われる「芸工展」第20回を祝して「Hirosima mon amour」を開催。また、2015年には同じく「芸工展」への参加イヴェントとして上映と懇談会「戦後日本と憲法」(講師:桜井均、協力:映像ドュメント.com)を開催。当店では日本国憲法と自民党案を対比させ、明治期に作られた五日市憲法案、大日本国憲法から成るA5判50ページ強の冊子を作り、配布しました。
 ちなみに、「芸工展」とは、1993年から毎年10月に1か月間にわたり、「まちじゅうが展覧会」を合言葉に谷根千〜上野桜木〜日暮里界隈で開かれる芸術祭で、当店はエリア外ですが、参加しています。
 余談ですが、映像ドキュメント,comは、選挙権が18歳に引き下げられのを機に、「選挙を考える」をテーマとした『18歳のためのレッスン』を11本作成。そのうち8本が当店で撮影され、その第9回「アベ政治を許さない〜澤地久枝氏」では冒頭に当店看板猫の虎太郎が出演しております。当店HP(http://www.eizoudocument.com/0144lesson09sawachi.html)からご覧頂けます。
 そして、2013年からは相倉久人氏のトークイヴェントが始まりました。
 相倉久人氏は戦後大学(東京大学)へ復学し、有楽町にあった伝説のJAZZ喫茶「コンボ」に入り浸ってジャズ評論を書き始めたという経歴の方で、後年1966年にはジョン・コルトレーンの東京公演の司会を務めました。
 2013年4月20日(土):相倉久人「炸裂ジャズトーク!at 映画館〜ジャズは世界にどう突き刺さったか!〜」。出演—相倉久人+聞き手・企画・編集—長門竜也。その3回目にあたる11月9日(土)には、映画『略称・連続射殺魔』上映とスペシャルトークイヴェント出演— 足立正生監督、市原みちえ。司会進行—長門竜也。いうまでもなく足立正生氏はこの映画の監督で、市原みちえ氏は永山則夫の遺品すべてを預かった方です。当店では50頁程の冊子を作りました。
 余談ですが、相倉氏と足立監督はこの日が数十年ぶりの再会。お互いに頭が薄くなったと笑っていらしたのが昨日のことのように思い出されます。
 この相倉久人氏のトークイヴェントは2015年1月31日(土)Vol.10まで「ジャズは世界にどう突き刺さったか!」をテーマに掘り下げていきましが、残念ながら2015年7月8日に氏が鬼籍に入られ、この会は消滅となりました。後日お別れ会が開かれ、小冊子が配られましたが、そこで使われていたのが当店スピーカー前で笑顔の相倉氏の写真。こみ上げるものがありました。

瀬川昌久氏のトークイヴェントはジャズと映画にまたがって

 2014年11月15日(土)からは、瀬川昌久氏のトークイヴェントを開始しました。
 古参のジャズ評論家として知られる瀬川氏ですが、その経歴をたどると、小学校から大学まで三島由紀夫と同窓生。戦時中は禁圧されたジャズを押し入れに隠れて聴き、学徒出陣で海軍に招集されたときには、当時は貴重品だった学生服を三島由紀夫氏へ差し上げたという逸話があります。三島氏のニューヨークでの演劇公演が予定されて訪米の際には、瀬川氏が色々面倒を見られたようです。
 2016年12月10日には瀬川昌久氏からの申し出があり、スペシャルトークとして「李香蘭とその時代〜次世代に語り継ぐ・戦争をさせないために〜」を開催しました(司会―のむみち氏、講演;瀬川昌久氏)。このときに参考資料としてご覧にいれた映画『私の鶯』(島津保次郎監督)は、1943年、東宝映画と満州映画協会によって共同製作された作品で、それまで中国人女優と思われていた李香蘭(山口淑子)はこの映画ではじめて日本人の役を演じたのでした。この映画のフィルムの完全版は残念ながら存在しません。
 日本の敗戦後、李香蘭は中国で漢奸として死刑判決を受けましたが、ロシア人の友人が李香蘭(山口淑子)が日本人であるとの戸籍謄本を苦労の末に入手。それによって死刑を免れた経緯や、戦中に共通する反知性〜音楽に対する弾圧〜学徒出陣から戦後の復員といった貴重なお話を伺えました。
 2018年9月8日にはのむみち氏聞き書き編集による宝田明氏の著書『銀幕に愛をこめて ぼくはゴジラの同期生』(筑摩書房)の発刊記念として、瀬川昌久氏+のむみち氏によるトークショーを行いました。このトークイヴェント開催にあたっては、何度かのむみち氏・福原氏らと共に瀬川氏のご自宅へ伺って打ち合わせ。戦時中のお話や戦後にJAZZの大きなコンサート開催されたこと、レコード制作で苦労されたことなどをお聞きしました。
 充実したトークイヴェントでしたが、瀬川氏はこの会の後に体調を崩され、氏とのお付き合いや冊子を作ってのイヴェントもしばらく遠のきました。ちなみに、トークの相手役となったのむみち氏は、毎月、B4判両面コピーを八つ折りにしたフリーペーパー『名画座かんぺ』を発刊されており、その数すでに100号を超えています。若い女性が発刊している姉妹紙『ミニシアターかんぺ』も配布しております。

去りゆく人々と大きな喪失感

 時はいやおうなく流れていきます。
 2008年には大和明氏が、2009年には平岡正明氏が、2014年に副島輝人氏が、2015年に相倉久人氏が、2021年には瀬川昌久氏が逝かれました。これら当店にゆかりの大切な人々と二度と会うことができなくなった喪失感にははかり知れないものがあります。
 ジャズ評論家・大和明氏は1駅隣の春日にお住まいで、ご自宅に伺ってレコード・コレクションの一部を拝見したこともあります。セロニアス・モンクの『Monk in Tokyo』(1963年録音)の初回プレスをさりげなく見せていただいたのはそのときでした。
 大和氏が主幹を務めておられたJAZZ HOT SOCIETYの紹介文を当店のHP上に書きこむ際には、私の隣に座られ、1字1句たりとも誤りがないよう、PCで入力されました。自分を目立たさせることなく若い人を立てていかれる姿勢に多くを学びました。
 平岡正明氏は私達が現在住んでいる根津のお生まれで、高校は当店のすぐ裏にある京華高等学校のご卒業。高校時代は、60年安保闘争のまっただなか。高校との間でいろいろと問題が起きたとのことでした。氏からは雑誌『無線と実験』への原稿執筆の推薦もいただきました。
 実は、この両氏によるトークイヴェントも構想にあったのですが、実現にはいたりませんでした。残念でなりません。

 大震災の2011年3月11日からコロナ発症の2019年まで、店では何かしらイヴェントを行っており、イヴェントによっては50〜60頁の冊子を作ったりしてきました。以上にその一部を羅列しましたが、これがJAZZ喫茶として正しいあり方か否かはわかりません。
 それでも、JAZZだけにこだわらず幅広くイヴェントを行いたい、だからこそ店名を「JAZZ&somethin’ else 喫茶・映画館」としたのです。この”somethin’ else”には、映画上映等に加え、幅広く芸術や反原発にかかわる討論会を行うという意志も含まれています。
 コロナ禍の影響は、不特定多数のお客を相手にする飲食業ではとりわけ大きく、行政からの時短営業、休業の要請もあり、お客様は激減、ご来店ゼロという日もありました。2023年5月8日(月)より新型コロナは第5類相当とされ、毎日の感染者数の発表もなくなり、マスク着用も自己判断になりましたが、街の風景は何も変わりません。感染者数も本当に減少しているのか不確かです。2019年から現在までの期間に数度行った詩の朗読会やライブイヴェントは、アルコール消毒を徹底したなかでの開催でした。
 そんな日々のなか、「JAZZ&somethin’ else 喫茶・映画館」は日常の営業も店名に恥じないよう、どこまで主体的かつ攻撃的に営めているか――このことをしきりに考えさせられるようになりました。
 店内には映画関連の機材やポスターを飾り、映画関連やJAZZ関連の書籍も置いてありますが、それらは現役で働いているというよりも、時間の経過とともに博物館のオブジェとなっていきつつある。そんな思いもあります。
 単なる「JAZZ喫茶」ではなく、また文化遺産やオブジェ的な存在ではなく、「JAZZ&somethin’ else 喫茶・映画館」として社会に対して現役で何かを発信し続けていく。そのことを肝に命じていきたいと思う日々です。

2-2 重低音専用据置型スピーカーボックスの製作

 店のドアを開けると、重低音専用据置型スピーカーボックスの上にバレンシアボックスの左右のスピーカーが載り、さらにその上にウッドホーンが載った、左手壁面全面がスピーカーシステムをなしている様が目にとびこんできます。しかし、その姿形は、店の開店当初は今とは異なり、ごく低い舞台の上にスピーカーシステムが載っている形状でした。
 その舞台を外して自作の重低音専用据置型スピーカーボックスに置き換えてできあがったのが現在の壁面全面スピーカーシステム形状ですが、それまでの舞台と入れ替える作業は、店を休むことなく、言ってみれば手品のように一瞬で終えました。ここでは、その入れ替え過程を書いていきます。
 その時のことははるか昔、雲の彼方の出来事ですので、当時の事を思い出しながら10分の1縮尺の設計図を再度書き出し、思い出し思い出ししながら書いていくことになります。

スピーカーシステムの設置場所を設計する

 創業時の白山下の店は木造2階建て、その1階部分の店内空間は正方形で、吸音効果がたいへん大きなつくりでした。これに対し、新たに移転した白山上の物件は3階建て。そのうち当店が入った1階部分は鉄筋コンクリート造りで、長辺5×短辺2.5×奥行き9メートルのホーンのような縦長の台形型で、四隅と中間の6箇所に柱が入った構造です。
 開店にあたり、スピーカーシステムの設置場所は、ホーンの喉の部分となる台形の頭頂部と決めました。奥の壁は、台形から柱の出っ張り部分を削り取った、変形8角形をなしています。その喉の部分に壁にぴったり合わせた高さ15センチの舞台を作り、スピーカーシステムの置き台としました。
 舞台の上にはブロックなどを置き、さらにその上に白山下から持って来たスピーカーシステムを黒塗装の重低音域スピーカーボックスを中心にニス塗り2台の38cmウーファーをシンメトリーに配置して設置。3台の高さを揃えてスピーカーの下の舞台に整列させました。
 音の響きは、白山下の店とは全く違っていました。オーディオ再生ではネジ1本を変えても音が変わると言われますが、部屋がここまで大きく変われば音の変化もまた大きなものになります。そうして、前回書いたように部屋の吸音・反射を調整。JAZZ喫茶を名乗り人様からお金を頂戴しても恥ずかしくない程度の音にまで仕上げました。この時点で、ホーンスピーカーのドライバーJBL LE85をここまで使い切っている方は他にいないだろうという位まで使いこなしていたと自負しています。
 ところが、しばらくこの形で使っているうちに、見慣れてきたせいでしょうか、色の違う3台のスピーカーが並ぶ様がありあわせのものを持って来て置いただけのホームメイドの感じが否めず、美しさを感じられなくなりました。また、この重低音のボックスは70Hz以下再生専用としては容積が足りず、今一つ低音に力強さが欲しいとも感じられました。そこで、今使っている重低音の箱を捨てて容積の大きなものに作り変え、ユニットもElectroVoice 30W ・76cmやフォステクス製80cmウーファー等に入れ換えたら最低域を強力にできるのではないかと考えました。
 ただし、この工事のために数日も休むわけにはいきません。毎日営業している中でその工事が可能か否かという問題につきあたりました。
 そこで、いつもやっていることですが、建物のスピーカー周りを計測し、スピーカー設置部の正確な寸法を10分の1に縮小して書き出した設計図を作成。10分の1のバレンシアの箱の床面のミニチュアやその下のブロックのミニチュアなどを図面の上に並べて動かしながら配置を試行錯誤しました。

やり直しは効かない、だから厳格に決める

 最低音域スピーカーボックスをこの部屋に合わせて作り固定化したら最後、その後は1ミリたりとも動かすことはできません。置く位置もきわめて厳格に決めなければなりません。建物は鉄筋コンクリート造りで、南側壁面には東西に柱が2本あり、その南東側の角は直角ではなく、壁面が106度の角度で開いています。そこでこの図面に、部屋の中心線を書き出します。部屋が台形でその東側は106度の角度ですから、中心線は奥の壁の直角に対し(106ー90)÷ 2 = 8 で、8度調整した74度と106度が中心線の起点となります。そして、新たに作るボックスのバッフル板は中心線に対して直角とします。
 特大ウーファーを入れる箱として考えられた案は2つありました。第一は、舞台上で低音バレンシアの箱を置いている舞台の後ろ側の空いている天板に大きな穴を開け、そこにバッフル板を立てて舞台と繋いで容積を確保し、その空間に舞台を含めた空間に大きなL字型の容積を持つ箱を作るという案。この場合は、スピーカーを使いながらでも作業はできそうです。難点は、そのウーファーの位置が極端に奥まってしまい、3本のウーファーの振動板の位置が揃わないことです。また、2台のバレンシアの間が空いてしまい、その空間を閉じることができないという問題もあります。これでは狭い空間に無理矢理置いた感じがして、美しくありません。そして、第一案に対する第二案は、舞台それ自体をウーファーに合わせた高さに持ち上げる方法です。
 どちらの案でも、ウーファーの口径が76cmであっても80cmであっても入れる設計は可能です。そこでElectroVoice 30W ・76cmウーファーそのものを調べると、マグネット(磁気回路)がさほど大きくはなく、私の好みではありません。ではということで、46cmウーファーについて調べてみますと、磁気回路は大きく強力で、またその磁気回路を自作改造してより強力なものにしていく余地もあります。これらのことから、最低音域を担うスピーカーとしては46cmウーファーを使うことに決め、第二の案で行くこととしました。
 ここでの問題は日常的にスピーカーを使っている中で、その下に据え付けてある舞台と入れ替える、それも店を1日も休むことなく入れ替えることが可能なのかということです。バッフルの高さは、スピーカーの真ん前に座って音を聴くお客様から一番奥の席まで最適な試聴位置を作れるようにと考えました。その結果、46cmウーファーの入る最小の高さである55cmのバッフルとすることに決めました。

営業を休むことなくどうやって工事を行うか

 何度もしつこく書きますが、一番の問題点は、毎日スピーカーシステムを使って営業しているなかで、どうやって工事を行うかということでした。これを考えることは生活を左右することでもあって、重要事でした。
 新たに作るボックスは巨大な大きさとなり、日常的に使っているバレンシアの下に配置します。そして狭い店で巨大な舞台と新たに作る巨大なボックスとをいかようにして入れ替えをするのか。そんな手品のようなことを考えなければなりませんでした。それも営業中にどのような工程で作業を行えば可能になるのかということを考えていきました。
 結論としては、外で箱を作りそれを舞台と入れ替えるのは、巨大なサイズから考えて不可能。まず舞台を外し、スピーカーシステムの隙間にできた空間の中で部材を組み立てていく、これ以外は考えられません。
 そこで考えたのが、せっかく作った舞台ではありますがこれを取り外し、毎日使っているスピーカーシステムは宙に浮かせて固定させる方法です。そして、その下の舞台のあった場所にできた空間で新たに作るボックスの根太を床に取り付け、その後組み立てていく。床面もスピーカーボックスの一部として使うということです。そのためにはすべての部材はミリ単位の精度で作る必要があり、後日スピーカーシステム をいったん外して、一気に組み立てていこうといううわけです。
 となれば、次はこのデザインの詳細です。箱そのものの基本的サイズは、合板材の規格サイズに合わせ、舞台よりも少し小さい幅180cm×高さ60cm×奥行き90cmを基本としました。これに対し、スピーカーユニットを取り付けるバッフル板の高さは46cmウーファーの入る最小限の大きさから55cmとします。スピーカーの箱の内部での定在波反射を抑えるため、背面は平板から三角形に変えた五角形とし、図面のA〜B〜C〜D〜Eまでが箱の外形平面上面図となります。そしてA〜3〜C2〜F〜G〜D2〜6からAへもどる線を天板にし、見た目の美しさをからC2〜F〜G〜D2で台形を作り、その上に箱よりも大きい天板を貼ると考えました。
 次は、図面に従って骨組み材、側面の板材、天板の板材に墨付けをし、精密に切り出し加工していきます。一番大切なバッフル板は25mm厚のランバーコア材を2枚重ねで使うこととしました。また、通常バッフル板は箱に対し木ネジで止めますが、8mmのボルトを締め付けて止めるようにしましした。このようにしますと、何百回でも付けたり外したりができます。
 さらに、バッフルの左右の端の側面の位置には四角形3本のバスレフダクトをつけました。このダクトは内側で部材を加えることで、ダクトの長さを変えることができます。
 通常箱を造るときには箱を構成する板材を組み立て、次にこの板の接続を補強するために角材を隅に取り付けて行く手順になりますが、このときはこの角材に相当する部分に柱材を二つ割にした10×5 断面の部材の骨組根太と梁を先に組み立て、それを使用しているスピーカーの下に置いていくこととしました。この骨組み材に柱と壁面となる板材と天板は後日貼り付けて行く手順とし、工芸よりも建築の考えで作っていきます。この方法ですと、毎日スピーカーを使いながらでもスピーカーを空中に固定しておけば可能だと考えたのでした。

実際の大工工事は部材の精密加工から

 ようやく実際の大工工事となります。
 まず、今まで置き台として使ってきた舞台を外さなければなりません。新規に作るスピーカーボックスとの入れ替えです。
 連休のある週を選んで行いました。この作業の記憶は定かではありませんが、まずは3台のスピーカーシステムのすべての配線を外して、一時脇へ置きます。そして舞台を外して一旦外へ出し、この舞台の前部だけを切り落として舞台本体は建物の脇に保管します。そして、剥き出しになった床面に中心線を書き写し、墨付けします。
 切り出した骨組みの部材は舞台のなくなった空間に置いて仮組み立てをし、それらの床への接続部分にも墨付けします。床から立ち上がった水平〜高さの狂いをミリ単位で正確に測定し、設計図に修正を書き加えます。これは床面が完全な水平と平面とは限らないからです。そして、新たに作るスピーカーボックスの台形底辺のバッフル板を取り付ける背面に当たる床面の位置に、骨組み材のいちばん長いD2〜C2の235cmの根太部材だけ1本を設計図に従って中心線に対し直角に台形底辺のバッフル板を組み付ける位置に接着剤とコンクリート釘で固定します。これからの組み立てではこの1本の根太材が工作〜組み立ての実作業のすべての基準となります。
 この日のスピーカー周りでの作業はこれで終了です。スピーカーシステム を戻して配線し、さらに舞台の前部であった切り出した部分を元の位置に舞台があるかのように置きます。この状態では舞台を外したと気付くお客様はおられません。
 そして平日の営業日、お客様の少ない時間帯を見計らって、これから使う全ての部材の加工調整を店の前の私道で行いました。舞台の天板は塗装もしてあるので、新規に作る重低音の箱の天板に合わせて切り出し加工して、天板の上板として使います。上下を繋ぐ柱材は前面のC・D点のバッフル接続部分では直角ですから柱材をその長さに合わせて切ればそのまま使えますが、台形としたため、A・B・Eでの3点部分での柱の側板との接合部分ではその部分の角度に合わせて四角形の柱材を台形に変えなければなりません、そこで台形の頂点となる部分に墨で線を書いておき、設計図に合わせてカンナで整形します。
 側板には組み立てた後では隙間にネジを締める手が入りませんので先にバスレフダクトを付け、その前部・上下にD-C点ではバッフル取り付けの骨組み材D2〜C2GAを貫通しますので、それに合わせて切り込みを入れ組み手としました。このカンナや鑿での仕上げは1ミリの誤差を基準とします。台形の接続部分は切り出した板にその角度に合わせて設計図に書かれた修正を読みながら、カンナで整形し、組み立て時のネジ穴も開けておきます。
 こうして、すべての部材をプラモデルの部品のように精密に作りました。

部屋全体をホーンとして考える

 こうした営業のなか、部屋全体をホーンとして考えますので、スピーカーシステムをその音源とし出口部分でホーンの延長となるように、断面が30×25×10mmで長さが120cmの三角柱を作って反射板とし、上下の取り付け部分で角度調整ができるように取り付けました。これらの作業は使用中のスピーカーとは無関係に店の脇の私道や閉店前後の店内で行いました。
そして、いよいよつぎの連休の日に、一気に組み立ての作業を行い完成させます。
 まず、スピーカーシステムの配線を再び外して脇に置いておき、高さ調整のブロック等と今まで使っていた黒い重低音専用のボックスは外へ出します。次に部材はすべて調整済みですから、木工ボンドと木ネジでそのまま一気に組み付けていきます。再々度水平を確認して天板を取り付け、さらに舞台から切り出した天板も重ねて貼り付けます。新たに作った重低音の箱では天板は箱よりも大きく、前へ10cmほど張り出しており、左右は壁面いっぱいまでもってきました。Aを頂点にA〜3〜C2〜F〜G〜D2〜6と結び、F〜Gの部分が直線に対し7センチほど台形形に前へせり出しています。
 この時点で、2枚重ねの天板の上板は舞台から切り出した板で塗装済みですので、そのまま組み合わせ、小口での誤差はミリ単位でしたので鉋と紙ヤスリで仕上げてから油性漆剤カシューを塗って完成です。
 そして、スピーカーシステムを新しく作ったボックスを置き台としてその上に2台のスピーカーを置き、配線を復帰させます。この姿形はこの店に合わせて作った美しい形にでき上がりました。来られたお客様は一瞬にして高さ15cmの舞台が60cmになったので驚かれました。
 バッフルにはとりあえず手持ちのLE15Aを取り付け、音だし確認をします。ウッドベースを中心に『Bass On Top』『MINGUS』といったアルバムからボーカルものまで、幅広く聴きます。ボックスの容積が大きくなった結果、低域は無理なく出ており、重低音だけではなく中低音も生音に近づきました。ベースの弦を弓で弾いたときの、松やにの粉が散るような音も何となく聞こえます。
 その後すぐに、JBLの46cmウーファーの中古品を見つけ、導入しました。これは総体の重量もあってしっかりした造りですが、エッジはJBJ-LE15Aと同じウレタンゴム系ロールエッジで、やや硬化している様子でした。コーン紙も低音域を伸ばすため、あるいは中低音を抑えるために重いつくりです。その形のエッジや重くしたコーン紙は私の好みではありませんでした。確かに最低域音は出ますが、全体に重たく感じられ、しかし音の終わりで音源ではなくスピーカーそのものの音の余韻があるように感じられました。最低域はそんなものなのかと思いながら10年ほど使いましたら、エッジに薄くひびが入りました。そこでTADのTL-1801の新品を購入。これはエッジはフィックスドエッジに近いに整形した布にダンプ剤塗ったもので安心感があります。コーン紙も決して重くは感じられません。
 総重量は12,6KgとJBLと比べさほど大きな差はありませんが、音を出してみるとJBLとは全く違います。最低域はドーンと出て、終わりの音が消えているところではスピーカーの音も余韻はなく消えています。つまり、音の立ち上がり〜立ち下がりが、そして解像度が良いのです。
 最低域から中低域を軽々と歯切れよく出したのには驚かされ、重低音ウーファーを加えている良さをはじめて体感しました。TADの46cmウーファーとは偶然の出会いですが、最上級の46cmウーファーで、満足しています。
 その後、LE85ドライバーを4インチドライバーに変えたり、ウッドホーンを製作したり、高音用の強力ツイッターを自作したりしましたが、この話はまた後ほど書かせていただきます。

 余談ですが、外国から来られたお客様に、オーディオシステムは自作ですとお伝えすると、一様に“amazing, incredible”と言われるのが、今の私の大きな喜びです。

第2章 JAZZ映画館のこだわりオーディオ 2-1 手作りのオーディオシステム

 1982年夏、漸く引越しが完了しました。今回は当店が一番力を入れているオーディオに関してお話しします。専門用語や物理理論がでてきますが、オーディオに縁遠い方にも理解していただけるよう、わかりやすく書いていきます。

オーディオ再生のために作られたような空間

 保健所へ提出した店の平面図を示す図面を見て見ますと、北側の底辺は5メートル、南側の短辺は2.5メートル、南北の長辺は5メートル、天井高2.2メートルで、全体は北西の角を90度、東側の壁面を斜めにした変則的な台形をなしており、建坪は33,75平米、すなわち10坪強です。
 この建物は、もともとは2部屋に分けて歯科医院へ販売する戸棚などを置き、倉庫として使われていました。この空間を1室にまとめると台形となり、この形状はまるでオーディオ再生のために作られたような理想的な形と感じられました。
 これを喫茶店にするために、まずは基本設計を長年の友人で建築家のO氏にお願いしました。また、建物の構造を変えるような大きな工事は本職の大工さんにお願いすることとし、大工さんもO氏に紹介していただきました。
 大工さんによる大きな工事としては、2つの部屋を分けている壁やドアの撤去があります。その結果、当初は部屋の奥まった方向にトイレのドアが見える状態になっていました。
 そこで私は、トイレの手前に壁を作って手洗い専用の小部屋とし、手洗い器を付けてトイレの入り口を隠すようにしました。工作の遊びとして、手をかざすとそれを感知して作動するエアタオルも作りましたが、その風力は弱く、エアタオルというよりも単なるオブジェになっています。
 西側にあるアルミサッシの窓は窓枠を木製に変え、白山下で使っていたクーラーを取り付けられるようにしました。そして、部屋の奥の部分の中央に喫茶店の顔とも言えるカウンターを作ってもらい、玄関のドアもガラス張りの新しいものを取り付け。これで大工仕事は完成です。
 一方、店内のペンキ塗装は、常連のお客様に手伝っていただきながら自力で行いました。前回も書きましたが、いまでは社長になられた方が部下を連れてきて、「ここのペンキはおれが塗った」などと自慢話をされることもあります。
 その間、私は工事全体を横目で見ながら南側短辺へスピーカーシステムを設置するための高さ15センチの舞台をこしらえ、オーディオをセットするための台と棚作りを進めていました。

台形の空間を活かす機材のセッティング

 そしていよいよ、白山下から持ち込んだスピーカーとアンプやプレイヤー等の機材のセットです。
 南側の短辺側へ据え付けた舞台の中央には低音再生専用のスピーカーを設置。白山下ではスペースの関係で横置きにしていたこのスピーカーは縦型にしました。その左右に今も使っている“ALTECバレンシア”のボックスを据え、ブロック等を使って3つのボックスの高さを調整。そんなふうにして全体がまとまったスピーカーシステムの見栄えに整えると壁面すべてがスピーカーとなり、さらには部屋全体がホーン型スピーカーの形状をなし、そのホーン形の中に客席があるという状態ができあがりました。
 次は、スピーカーシステムアンプの接続です。この時使っていたアンプはマランツ#8Bに近い真空管EL34のPush-Pull回路か、マッキントッシュMC275に近いKT88のPush-Pull回路の自作アンプのどちらかだったと思います。
 当店のスピーカーシステムは、70Hz以下の重低音領域を専用のボックスに入れたJBL15Aに受け持たせていて、この低域専用SPはトランジスターの大出力アンプで駆動します。また、70Hz〜800Hzの中低音領域を受け持つのはバッフル板を25ミリ厚のランバーコアー材に変えた“ALTECバレンシア”ボックスに入れたJBL-130Aで、これが音の基本部分を構成しています。そして、その上には中音ホーンと高音ホーンスピカーを乗せます。
 800Hz〜5KHzの中域には、JBLのLE85ドライバーに同じくJBLのシステムD44000 Paragon に使われているホーンH5038Pと全くの同サイズで自作した鋳鉄素材(オリジナルはアルミ素材)のホーンをセット。スロートアダプターもオリジナルのJBL2327を模したものを同じく鋳鉄で作り、旋盤で精密加工。この超重量級ホーンに 2インチ・ダイアフラムのJBL LE85 ドライバーを付けています。鋳鉄でホーンを作ったのはアルミに比較して重量が勝り、ホーンの振動を制御できると考えたからです。
 さらに、5KHzから上の高音部を担うツイッターにはJBL 2405とゴトーユニットの製品を並べ、スイッチで切り替え使用する方式にしました。

参考にしたJBLの純正設計図
なお、中音域を担うH5038Pの自作のホーン開口部にはJBL社のジェームス・B・ランシング氏とビル・トーマス氏が考案した、音をレンズの水平方向の左右へ広げる音響レンズを付けています。余談になりますが、JBL社の音響レンズの1つ、BL 537-509・ゴールドウイング(Model 2390)は世界で最も美しいスピーカーシステムとして『LIFE』誌の表紙を飾った、JBL D30085 Hartsfield に使われていたことで知られています。
 一方、JBL537-510ウイング(Model 2395)は幅が90センチもある大きなPA用のものですが、構造もつくりもごくシンプル。私はオリジナルのアルミ板に対し科(シナ)ベニア板で20枚ほどのレンズ板を切り出して斜め45度に並べ、垂直に貫通するボルトの穴をそれに合わせてずらし、1枚の板に対し4ヵ所ずつ計160の穴を開けてそれらの板すべてにニスを染み込ませ、さらに上下の板には補強用のアルミ板をを張って自作しました。このJBL537-510のオリジナルは、一部の喫茶店でも使われています。
 音の違いについていえば、すべてをアルミの薄板で作っている537-509・ゴールドウイングは解像度は良いものの硬めの音。これに対し、厚い科ベニア板で作った自作の537-510ウイングは、カメラのレンズにたとえるとほどよいぼけ具合が音の響きに合いました。その要因としては、金属と木材では音の伝達速度が異なり、材質によって反射音の違いが出るからではないかと考えます。
 しかしながら、この537-510ウイングは、白山上の店では横幅が巨大すぎたため、全体の見栄えを考慮し、ウーファーの箱ヴァレンシアに合わせて70センチ幅に切断していました。そして、新しい店では、この2種類の音響レンズを交換しながら使い、音の違いを楽しむこととなったのです。
 不思議なことに、白山下と全く同じ機材をそのまま持って来て使っているにもかかわらず、部屋の違いからか、出てくる「音」は全く違います。PAの専門家なら部屋が違えば音が変わることは常識の部類でしょうが、私には正直驚きでした。

「日本一音の良い店」と言わせられるジャズ喫茶づくりを目指す

 そこで、まずはネットワークの中・高音のレベルとマルチアンプ駆動の最低域アンプのレベルを少し補正。これで全体のレベルはまずまずの状態に調整されましたが、「音」は満足できる状態ではありません。反射音が気になる硬い音です。原因としては天井が2.2メートルと低く、天井から壁面がすべて石膏ボードで作られていることが考えられます。その石膏ボードの胴鳴りする反射音が耐えられないのです。一番の解決策として考えられるのは石膏ボードを外し、天井を高くして、壁面を響きの良い木に変え、スピーカー周囲の空間に余裕を与えることです。しかし、天井高は建物そのものの構造上の問題であって、変えて高くすることなどできません。
 結局は、私の今までの経験と知識、そして音響工学をさらに勉強することで乗り越えようと決断しました。せっかく一から作って行くのですから、空間の制限はあるものの、純粋に「音」へのこだわりを持ち、「日本一音の良い店」と言わせられるジャズ喫茶づくりを目指すことにしたのです。
 音は秒速340メートルで、人はその早い音速の100分の1〜1000分の1以下の違いから部屋の大きさを体感します。音速を変えることはできませんが、反射を複雑にすれば音源との距離感に錯覚を与えることは可能ではないかと考えました。一つの結論として部屋の音の反射と吸音をアトランダムに行うことで、反射音をコントロールすればいいとの考えに至りました。とりわけ天井が2.2メートルと低いので、この天井を「音的に高くする」ためにスピーカーの真上と背面は徹底的に吸音に務め、スピーカー前では吸音と乱反射でコントロールしました。

天井に付けた吸音材と反射板
 次に、壁面の天井に近い梁の部分とスピーカー出口周りの天井へはすべて吸音材を張り、アトランダムに反射板も加えました。目的は体感の反射時間を長く感じさせ、仮装天井を無限に近く高くすることです。
 スピーカー前の左右の壁面に響きの良い楢材の110センチ長の厚板をL字に組み、上下をボルトで固定。高音スピーカーの上面前にも45センチ×30センチ長の反射版を設置し、さらにその前面、ステレオスピーカーの中央には音を左右に拡散させる目的で50センチ大のピラミッドを切断したような三角柱を据え付けました。これらは全て角度の調整ができるように作ってあり、音の微調整ができます。これらを作ったのは壁面の反射音を木張りの壁に近づけるためです。
 さらに、バレンシアのボックスの左右と背面の空間へは低音吸音材ラスクの90×60センチの一番大きなものを張りました。このラスクとは鉄の薄い切り子を板状にプレスして固めたもので、低音に対しても吸音効果があります。中音〜高音の吸音は割合と簡単ですが、低音はエネルギーも大きく、吸音は鉄〜銅〜鉛〜金等の重量のある素材でないと難しく、低音の吸音効果のある吸音材の市販品はこのラスクだけです。このラスクの製造〜発売の中止は、日本のオーディオ再生〜鑑賞のレベルを低下させると考えます。
 そして、スピーカーの後部の空間へは中音域の特定の周波数に吸音効果のある重量級の各種ガラス瓶や乱反射の為の丸棒材等を加えていきました。この作業だけで数年はかかっています。
 これで、大きな音を出しても硬さは感じられず、部屋の狭さも感じられず、その爆音の中でもお客様同士がお話しできる音空間に仕上がりました。ただし、これで満足していてはオーディオ・マニアの私としては意味がありません。この時期、私達の周囲でケーブルの素材で音が変わるという話が持ち上がっていました。知人の試聴室でケーブルを変えての聴き比べに参加させていただき、確かに音の変わることを体験しました。
 話題に上った銅線の素材としては、無酸素銅のOFC線、高純度99,9999%の6N銅線や更に純度を高めた7N銅線、純銀線などが挙げられます。こうした素材だけでなく、被覆のゴムやポリエチレン、ケーブルの作りの構造の違いでも音は変わります。鉄を線にした物は音が良くないです。ちなみに、私はハンダ付けには銀入りのハンダを使っております。
 そこで私は店のスピーカーケーブル周りでは、まずネットワークの配線をすべて6N銅線に変えました。次に気になったのはスピーカーユニットの端子です。スピーカー設計者としては誰が何時使うか分からず、何度でも使えるように耐久性を考えたら、鉄を素材として作らざるを得ません、とりわけ、端子を銅素材で作り金メッキしたとしてもこれをユニットに固定するのに長さにして1センチほどですが鉄が使われています。それは銅のネジでは折れやすく耐久性がないからです。
 私は純銅の端子を入手したり、リード線を直接端子へ持って来たりと、鉄ネジに音声信号を通すのをやめました。この時点で使用しているスピーカー機材では最上級の音を出していると自負しております。

工作に熱中すると、欠点も見えてくる

 暇を使っての工作熱に火がつくと、同時に欠点も見えて来ました。最低音のJBL LE15Aでは立ち上がり迫力が今一つ足りません。46センチのウーファーが気になりました。
 また中域のJBL LE85ドライバーでは、限界までの音を出しています。その上を望むなら4インチ・ダイアフラムのドライバーとし、低音と中音のクロスオーバーを500Hzに変える必要があります。
 次にやるべきこととして、最低音のJBL15Aを更に大きな46センチのウーファーに変えるという目標が見えてきました。また、4インチ・ダイアフラムのドライバーが気になりはじめました。46センチ・ウーファーとした場合、ボックスをそのウーファーが必要とする容積に作り変えなければなりません。頭で考え、現在使用している壁面すべてを使い、高さ60センチのボックスを考えました。
 といって、ボックスを作って交換するために1週間も10日も店を閉じるわけにはいきません。スピーカーシステムを日常的に駆動しながら、どうしたら1〜2日位の休みで手品のようにボックスを作り、入れ替えることが可能か。このことに一番頭を使いました。
 といった次第で、次は木工を中心にこの手品のような作業や音の改善策について書いていきたいと思います。