4-4 JAZZ&somethin’else喫茶・映画館、最終章へ

46年ものジャズ喫茶経営と竜舌蘭の花と

 当店で掛けているモダンジャズ〜フリージャズは「先進国の都市音楽」だと言っていいでしょう。昔、ネパールやバングラディシュへ取材で行くときにジャズのCDを持っていきましたが、一度も聴くことはありませんでした。
 ヒマラヤ山脈を眼前に見たり、地平線へまで広がる畑の緑の風景の中ではジャズは似合いません。ジャズはアメリカの綿畑で働く人から生まれた魂の音楽ですが、モダンジャズは戦時中にNYなど大都市で発展し、生まれたときとは異質の形で進歩した音楽です。
 2024年5月現在、3月生まれの私は78歳を迎え、当店「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」も今年の夏には46年目に入ります。78歳という年齢と「ジャズ喫茶」という奇妙な仕事を46年もの間続けてきた現実に驚いている昨今です。
 自分では体力〜気力に気をつけ、体を整えてから店へ出ていますが、他人から見ますと、記憶力〜集中力の衰えを感じられるかもしれません。頭に浮かんだアルバムを探し出すのに半日かかることもあり、ふと気づくと小股でふらつき、よちよちと摺り足で歩行していることに恥ずかしながら自分が驚かされます。
 店内では決してそうならないように太ももの筋トレとしてスクワットを1日100回ほどしておりますが、衰退の速度に追いつきません。
 今週(5月12日〜)自宅から店へ行く途中の本郷通りの交差点に、50年〜100年に一度しか花を咲かせないという竜舌蘭が巨大な花を2輪咲かせておりました。地球温暖化の影響か、吉兆の前触れか? この花は毎年見ることができるわけではありませんから、これを目にしたことで、自分自身の気持ちに踏ん切りがつけられたのかもしれません。

新しい流れへの関心が薄れつつある中で出合った盤たち

 話はジャズに戻りますが、感覚面ではジャズ喫茶の命である「音楽としての新しい流れ」に私の関心が薄らいできていることを自覚せざるをえません。日本人の若いプレイヤーで上手な人は多く出ていますが、それでも半世紀近く前にコルトレーン、ドルフィーをはじめて聴いたときのような驚きを感じることはできません。これは、私の感受性が落ちたということなのか、あるいはジャズ自体が発展をやめたということなのか、いずれとも言いがたいものがあります。
 そんな中で出合った2002年録音の『大友良英ニュー・ジャズ・クインテット・ライヴ』(ディスク・ユニオン)は、未来への発展が感じられる秀作だと思います。また、2001年に発売された1967年4月録音の『Olatunji Concert: The Last Live Recording』(Impulse!)を聴きますと、戦慄を感じます。これは私自身コルトレーン、ドルフィーからジャズへ入って行ったからなのでしょう。
 一方で、2020年代は新譜や新人で驚かされる機会が少なくなりました。ジャズは個々のプレイヤーの力だけではなく、これを支持して聴く観客から社会情勢全体が創られていく音楽だと思います。フリーに近いジャズであっても50年前のスタイルが一つの完成形なのかもしれませんが、それを超えられなければマンネリ化と言えるのではないでしょうか。また、このスタイルを支持し続けている私自身も保守化しているのかもしれません。
 2000年代になって、旧ソ連〜ロシア・衛星圏の地域で、西側のラジオからジャズを聴いていたであろうチェコ・スロバキア〜リトアニア等の国々から面白いアルバムが見られるようになりました。有名なプレイヤーではオンドレイ・ストゥヴェラチェク、ナイポンク、マルタ・グルジュバ等の録音は入手可能です。
 そんな東欧にあっての唯一の例外はポーランドで、早く1960年代からJAZZでも映画でもヨーロッパ全体を牽引していました。ジャズではPolish jazzとしてMuzaレーベルよりクシシュトフ・コメダ、トマシュ・スタンコ、ズビグニエフ・ナミスウォフスキなどが出され、映画ではアンジェイ・ワイダ、イェジー・カヴァレロヴィチ、アンジェイ・ムンク等がよく知られており、ソ連寄り政府のスターリニズム的検閲を巧みに交わして秀作が誕生しています。ロシアの大統領がプーチンになってからは検閲は更にひどくなり、ロシアでの新しい映画も音楽も表現が難しくなっているように思われます。

今年2024年の秋、「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」は人様の手に

 話は、私の老齢とからんでの、店の行く末のことになります。
 時が2020年に入った頃からでしょうか、店を閉めるか、それとも私自身が仕事から身を引くかを真剣に考え始めました。
 現実にはそれより数年前、私が70歳を迎えた頃、ある方から店を引き継いでもよいというお話がありました。最終的には店のカラーが強すぎ、超マニアックなレコード・コレクターの相手も難しいということでお流れになりましたが、閉店もしくは店の譲渡という問題はその頃に私の頭の片隅にこびりついたようです。
 この件に関しては、妻と話したこともあります。レコードや本、資料、オーディオ類は欲しいという方に譲り、看板は外して店を解体、更地にして家主へ返すのがよいというのが、妻の意見でした。
 振り返れば、この店は46年間、カウンターの木製の椅子をキットから作ったり、何から何まで妻と二人で手作りしてきた店で、持てる力の範囲を超えて充分にやってきたという思いがあります。しかしながら、「更地にして」となると、私自身の未練もまた大きいものがありました。
 外国人の方から当店を「残してほしい」というう声が多数あり、ジェイムズ・キャッチポール(James Catchpole)氏そしてDJをなさっている大塚広子さんと出会うことになったのは、そんな折りでした。お二人の行動は素早く、キックスターター(Kickstarter)が運営するクラウドファンディングサイトで資金集めを開始。その後の動きも急で、わずか10日程で必要額近くに達しました。
 当初、私自身はこの5月頃の引退を考えていたのですが、彼らお二人の行動の結果、今年10月末までは私が店主として活動。今年の冬の足音を聞く前に私が引退し、お二人に交替するという段取りが決まりました。そうです、私と妻は店を去り、代わってジェイムズ・キャッチポール、大塚広子のお二人がこの「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」を引き継いでくださるのです。
 店を譲り渡すにあたっての私の思いは、彼らお二人が今の状態をそのまま残して安易に引き継ぐのではなく、お二人ご自身のお考えを生かした店創りをしていただきたいという希望にあります。ジェイムズ・キャッチポール氏は日本に長期滞在しているアメリカの放送作家で、日本のジャズ喫茶300軒近くを周り、写真集『Tokyo Jazz Joints』(Philip Arneill:写真、James Catchpole:文、Kehrer Verlag Heidelberg社)にまとめるというお仕事をされた方です。写真集からは、”JAZZ KISSA”への深い愛を感じることができます。また、大塚広子さんはジャズのDJとして著名で、長いキャリアをお持ちの方です。ジャズに対する愛情が深く、私よりもはるかに若く感受性も鋭いこのお二人なら、ただ当店を引き継いでくださるだけでなく、私にはなし得なかったジャズ喫茶の新しい地平を切り拓いてくださるのではないかと、漠然ながらも期待しています。

店を譲渡するにあたって思い浮かぶこと

 店の譲渡が決まったいま、過去のある日ある時のことがいくつも脳裏に浮かんできます。
 もう1年以上の時が過ぎましたが、昨2023年3月15日には、わが店の看板猫・虎太郎が17歳と10か月で旅立ちました、人間でいえば80歳代の高齢でした。
 虎太郎は甲状腺機能亢進症と慢性腎臓病を抱えており、17歳の半ばから固形の飯が食べ辛くなりました。結果、私は鼻の穴へチューブをつないで液状のロイヤルカナンを流し込み、腎臓病に対しては背中から注射器で50ccの補水液を与えました。
 そんなある日、背中で荒々しい呼吸をしだしたので獣医へ連れて行きましたら、予想だにしていなかった今日か明日かという余命宣告。目の前が暗くなりました。
 思案してそれ以前に通っていたER文京(高度救急センター)へ連れて行ったところ、肺に水が溜まっているとのことで即入院治療。鼻のチューブからの栄養剤、背中からの補水液50ccの投与も続け、虎太郎は嫌がることもなく1か月近い治療を頑張ってくれました。
 旅立つ数日前、自宅の机の上に正座し、不動の姿勢で5分ほど私たち二人を見つめていたことが思い出されます。初めてのこととあって、ただただ驚きの数分間。心と心の会話が交わされました。
「ボクはもう旅経つけれど、これは生きている者の避けられない定めだよ、いろいろなことがあったね、」
「今までありがとう、ボクはいなくなっても君たち二人を見守っているよ、最後まで元気でね」
 オス猫に生まれたけれども猫社会にとけ込めず、人間の社会で愛猫・虎太郎とし生き、最後は私たちと3人で楽しく暮らして来た虎太郎。有難うの想いが伝わってくる数分の長いようで短い時間でした。
 その日3月15日も、買い物に出かける私たちをいつものように「行ってらっしゃい」と見送ってくれた虎太郎でしたが、私たちが帰宅すると自分のベッドの中で静かに息絶えていました。そのとき、私が自分でも驚くほど冷静でいられたのは、あのときの別れの儀式が私たちを落ち着かせてくれたのだと思います。
 店を始めて46年。いま、どのようにして店の最後を迎えるかを考えると、虎太郎の気持ちが痛いほどわかります。虎太郎を見習い、虎太郎に恥じないように毅然と幕を下ろしたいと思います。いま考えれば、虎太郎の死は店の終わりの予告でもあったのだろうと思います。

簡単には片づかないオーディオ関係

 虎太郎とは違って、生身の人間がやっている店の後始末はそう簡単ではありません。特に、店の心臓部であるオーディオ関係ではあまりにも多くの物や関係性があり、その整理が大変です。
 創りかけの音響機材等も多数あり、大きな物としては、写真の「アンプ完成予定」があります。「木枠シャーシーのパワーアンプ」で、これは20年以上前に私のアンプ作りの集大成として企画・設計し、後は内部配線をすれば完成という段階ですが、それ以上手が付けられないままに時間だけが経過しました。
 アンプの木枠を作るのは大変な作業でしたが、これがステンレスの上板の加工となるとそもそも工具すらなく、プロの旋盤業者に依頼して作ってもらいました。それでも、完成真近の状態でアンプ棚に置いておくだけでも充分飾りにはなっていたのがこのアンプです。
 店を譲渡するにあたり、まずはこの「木枠シャシーのパワーアンプ」を部品扱いとし、ヤフオクで次世代の方へ処分することにしました。未完成ではあってもそれなりに苦労して作り、形だけといえどもアンプ棚を飾って来た作品ですから、自分の手で廃棄するなど未練が大きくてとてもできません。これを手放すことが私自身の店に対する未練を断ち切る第一歩と考え、次世代の方に譲りたいと考えたのです。
 それと入れ代わるように、アメリカの映画館で使われていたIPC AM 1027型パワーアンプの完動品2台をAirplan Label 川端様より頂戴しました。IPC社が整備・調整する劇場用アンプですから、一般のアンプとは異なり、外部のアンプ等との配線はハモニカ端子板にYラグで接続します。私はこの配線方法を止め、RCA入力端子、ねじ込み形出力端子、固定式AC100Vケーブルという一般のアンプと同じ方式に変え、多少なりともオーディオ知識があればどなたでも使えるように改造しました。そしてこれを木枠シャシーアンプがあった場所へ入れ換えとして収めました。現在は300BアンプとこのIPCアンプのどちらかを選択してレコード演奏をしております。
 また、書籍の部類についても、本棚に置いてあるだけで誰も見ようとしないものは同様に整理していきたいと考えたのですが、時代の変化でしょうか、紙物、特に本の類いは買い手がつきません。

二足の草蛙から専業ジャズ喫茶へと至る道筋

 こんな小さな店です。振り返れば創業当時は映画の仕事と並走の二足の草蛙。映画の仕事がないときは、閉店後の店内でオーディオ作りをしたり、お客様と自転車で横浜まで往復したりと、店の営業は「いい加減」の状態でした。
 その後、東日本大震災の後に看板を「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」に作り替え、あくまでも「ジャズ喫茶」として営業を続けてました。都合46年間ジャズ喫茶としては成長してきたつもりですが、一体どれだけのことが達せられたか、今は自分では読めません。
 以前もふれたように、1978年の開店の直後、毎日新聞夕刊のルポライター・池田信一氏による連載記事「小集団の世界」で同人『Maiden Voyage』ともども映画の自主上映の喫茶店として紹介されました。また、1980年、『無線と実験』誌では高橋壮一氏による「Discover New Sound」の見開き2ページで紹介されました。
 こうした紹介の影響は大きく、コアな映画ファンや自作オーディオマニアの方々がよく来店されるようになりました。音楽はジャズだけをかけていましたが、「ジャズ喫茶」どころか「店」さえも意識したことはありませんでした。
 それが、1982年の白山上への移転の際、常連のお客様が「JAZZ SPOT 喫茶・映画館」という大きな看板を作って下さいました。看板に合わせて台を創るのも大変で、若かったからできたのでしょう。「ジャズ喫茶」を意識した経営状態になったのはこの時からです。
 さらに、2000年には、私自身が映画の仕事とは完全に縁を切ることを決断しました。それは、私の監督作品で賞をいただいたこともあり、それなりのレベルには達しましたが、「それなり」を超え、その上へ進むためには特異な才能と必死の努力が必要で、「二足の草蛙」では到底不可能と考えたからです。自分の才能〜欲求〜状況を客観的に分析して見ていった結果、自分自身に「映画」でのこれ以上の発展は望めず、映画を捨てて「ジャズ喫茶」を選びました。
 高校生の頃から夢に見ていた「映画監督」を捨てることに対する映画仲間からの「反対」の声を押し殺してまでして行う「ジャズ喫茶」への専念です、通り一遍のジャズ喫茶では自分自身が許せません。

2011年、「喫茶・映画館」から「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」へ

 小さいながらも46年に及ぶ店の歴史の中で一番の転機となったのは、やはり2011年の大震災です。
 震災で壊れた看板を作り替えるにあたり、私自身の発案で「JAZZ&somethin’else」という言葉を看板に入れました。「JAZZ&somethin’else」とはどういうことか? 店はジャズと映画を機軸とする文化全般の中継基地であり、その中から新しい文化創造に挑む若者を手助けできる機会、具体的には種々のイベントを開催しよう、ということです。これまでの「喫茶・映画館」から「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」という店名の変更にはそういう意味がありました。
 当店はスペースが約10坪と狭く、限界があります。「JAZZ」の部分ではピアノの常設はできず、ライブ演奏はごく親しいプレイヤーのデュオが限界で、レコード演奏が中心となります。レコード再生では、音響的にはむしろ最適の空間です。
 「JAZZ」と「オーディオ」「映画」関連の本と資料は、店内に多数置いてあります。以前も書きましたが、レコード再生に関しましてはプレイヤー〜アンプ〜スピーカーそして音響空間の設計〜素材から施行までを基礎から勉強し、プロの方に負けない一家言を持っており、完全な状態です。
 「映画館」の部分では、映画を辞めた私ですし、自分の作品は決して上映しません。劇場では見ることのできない作品で秀作を数人の会員で選んで見る会を行ってきました。
 次の「somethin’else」では、「詩の朗読会」を数年間続け、雑誌『現代詩手帖』の座談会の場所に使われたり、何人かの方は出版社より詩集を出したり詩人としてラジオ出演されたりするにいたりました。この会に参加された吟遊詩人・寺田町氏とのご縁からベースの瀬尾高志氏と親しくなり、ジャズライブへとつながります。
 瀬尾高志氏のお力添えにより、瀬尾高志+寺田町ジャズライブから瀬尾高志+吉田隆一、瀬尾高志+林栄一、瀬尾高志+纐纈雅代、デュオジャズライブと発展していきました。
 「舞踏とフリージャズ」では舞踏が1人だけや3人で演じる場合もありましたが、「音」に対して感じたまま即興で演じられます。それでも事前に何枚かのレコードを聴いていただき、曲目と順番を決めます。一度はテナーサックスを吹いているプレイヤーの背中へ自然に演じながらよじ登る場面もありました。
 特別ゲストを招いての「トークイベント」では瀬川昌久氏、相倉久人氏、足立正生氏、桜井圴氏と映像ドキュメント等を多く行いました。構成〜司会進行を行って下さった長門竜也氏は『シャープス&フラッツ物語』(小学館)を、のむみち氏は『宝田明・銀幕に愛をこめて』(筑摩書房)を出されております。
 ただひとつ、親しくさせていただいた平岡正明氏の「トークイベント」を実現できなかったのが残念で、悔いが残ります。

店を引き継ぐときが「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」の完成形

 ある部分では、日本のどこにもないジャズ喫茶にしたいという私の願いは達成できたと考えています。3年前に日本語訳版が出版されたムックですが『台湾人ジャーナリストが見たニッポンのジャズ喫茶』(周靖庭:写真、高智範:訳)にて当店のオーディオと店の作りを下記のような要旨で丁寧に説明されています――店全体がホーン状態に末広がりで壁面同士の不要な共振がなく、そのホーンの喉元全体部分に音源となるスピーカーを設置した作りが、どの場所に座っても好条件で音楽を鑑賞できる。
 46年間「ジャズ喫茶」を力の限り自身の生活を顧みず頑張ってきました。私事ですが文句の一つも言う事なく自由にやらせてくれ、生活の基盤を作ってくれた妻には感謝しております。
 2004年に中山英二(ベース)+山口友生(ギター)のデュオがはじめて行ったジャズライブでは、録音のコツが分からず、多数のマイクをセットして2系列で録音しました。そして、2022年5月13日と同年10月24日に瀬尾高志+坂田明 DUOを私の中では最後の「at EIGAKAN JAZZ LIVE」として行い、そのうち10月24日の演奏は、AIRPLANEレーベルより『SAKATA AKIRA × SEO TAKASHI/Live at HAKUSAN EIGA-KAN』としてCDアルバム化されました。演奏の最後は谷川俊太郎の「死んだ男の残したものは」の朗読バージョンでした。
 それでは、私の創りましたJAZZ喫茶「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」の残したものは……結果としては私自身の人生をかけてきた店作りで、いまでも細かな工作をしたり、不要な物を処分したりと現在進行形ですが、引退したときにはそれが「零」になります。引き継ぐのは本年10月〜11月と決まり、すでに半年を切ったいま、感慨深いものがあります。残された日々を全速力で走ります。次のことを考える余裕はありません。現在、上映会も2本の予定が入っており、会員限定の小規模上映会を行います。
 この引き継ぐ時が「JAZZ&somethin’else喫茶・映画館」の完成形です。
 おそらくは虎太郎がじっと見守ってくれていると思います。誰にも恥じることのないように凛として幕を下ろす覚悟です。